展示ということ

二日続けてお出かけだ。しかも青梅まで。遠かったー。

『アレぢごく』~青いオープンカーに壷がはねられればいいんじゃない?~ というのを見る。(青梅織物工業共同組合敷地内 BOX KI-O-KU、SAKURA FACTORY/ART SPACE petal fugal)
現代アートの作家さん10名による展示。
タイトルのセンスとかから「美大っぽいノリだったら嫌かも」と懸念していたが、楽しめた。わたしは、他人の作品はわからないものだと思うので作品についてあれこれ言うつもりはないが、今日はたまたま「面白い展覧会とはどんなものか?」という内容のシンポジウムもやっていた。
こういう催しはアートの方ではよくあるらしいんだけど、わたしにはもの珍しく、興味深かった。イラストとアートとは地続きだし、やっぱり、同年代の作家さんとは、置かれた状況も抱えてる問題も似たようなところがあるようなのだ。

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シンポジウムのパネリストは展覧会を企画したり評論したりする側の人が多く、既成概念を打ち破ることが出来ていれば、作品そのものはいらないという発言もあった。
知的刺激を追求していけばそうなるだろう。結局は言葉の世界だということだろうか。

でも、その考え方には、作品の持つ雰囲気なり情感なり「よくわからないもの」が抜け落ちている。解説文を一所懸命に書こうとしても、絶対に書きあらわせないもの。そういうものを表現しようとしているのは、ちゃんと伝わってたと思うんだけどなあ。

そんなこむずかしいことを考えずストレートに情感とかを追求できるのがイラストレーションの良い点だ。イラストレーションとは、作品の「華」とか「魅力」に特化したものと言えるかも知れない。そうやって出てきたイメージが一気に理屈をとび越えることだってある。

現代アートだって、人の心を動かす何かがなければならないと思うのだけど違うのかな?
作家は、作ることによって考えることができる。でも、考えるためだけに作っているのだろうか?アートであれイラストであれ作品を作ることに理由などなく、そうとしかできないから作るのだ。
ようするに自然物と同じなので、作品はいらないと言われても、できてしまったものは仕方がない。できの悪いものは淘汰されていくだけだ。

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作家さんの口からエンターテイメントって言葉が出たのにはちょっと驚いた。まあ気になるよね…。

でも、近所のおばあちゃんが現代アートを見て理解できないのは当然で、たいていの人は、知的刺激を受けたいのではなく、感情を揺さぶられたいのだ。
しかし、大きいとか寒いとか眩しいとか、ほんのささいなことでも、動く時には心は動くものだし、美術の教育を受けてないから現代アートを見ても心が動かないなんてはずはない。
つまり現代アートはわからないものだという思い込み(=既成概念)が厄介なんだろう。

でも、知識を持たない人の勘は意外に鋭かったりして、けっして侮れないものだ。
自己アピールの得手不得手や、メディアの情報による偏りはどうしようもなくあるが、大勢の人が支持するものには、やはりそれなりに良い部分があるのではないか。

感情ってそれくらい重要なものなんだと思う。感情を揺さぶられる気持ちよさってある。

そもそも、教育なんか受けなくたって、必要だったら人は自分で学習できるものだ。
読み書きができれば、ある考え方に巡り会うことも、必要かどうかを判断することもできる。

既成概念から解放される自由は素晴らしいけど、不自由なままでいたい人もたくさんいる。
アートが必要な人と必要でない人がいること自体はどうすることもできない。
その人にとってその時に必要でなければ、面白いことに出会っても気がつかない。理解する人は理解するし、理解しない人は理解しないというだけのことだ。
それに、理解できたと思っていても、本当に理解してるかなんて誰にもわからない。だから作る者は歩み寄らなくていいし、見る者は卑屈にならなくていい。

エンターテイメントってその人の資質の問題なのではないかと思う。
無理なものは無理。エンターテイメントのために努力できるならそれもまた資質だし。
(それにしても、理解するってどういうことだろう。理解したいという気持ちはなんだろう。世界中のものを見尽くし、理解し尽くそうとしても不可能なのに。)

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アートはある場所に展示することが前提だし、展示することが作品そのものになっていることもある。(今回の会場は古い織物工場を利用していて、空間自体が面白かった。)
アート(=試みること)において、展示法または企画は命のようなものだろうし、アートの作家さんの関心はそこに向かいやすいようだ。

イラストレーターが売り込みに知恵をしぼるように、アーティストは企画に頭を悩ませるわけだ。(はっきり言って、イラストレーターにとっては、展示も売り込みの一環のようなものだし、イラストレーター同士で集まって話をすると、作品がどうこうというより、どうしたら売れるかとか、ギャラがどうとか、ケチくさい話になりがちで、役にはたつけど正直つまらなかったりする。)

実際に、展覧会などに行って良かったと思えるのは企画が面白いときだったりする。
企画がつまらないと、いくら質の良い作品が飾られていてもすべて台なしになってしまう。
そういう意味でも、作品と企画とは完全に分離はできないけれど本来は別のものだと思う。

じつは、作品そのものには社会性も(あってもいいけど)必要ではないんじゃないかと思う。
プレゼンによってようやく現実的な社会やお金とからむのだと思う。

作品自体にも展示にもそれぞれ意味があると考えなければグループ展って難しくないかな。
これはイラスト描きにとっては明白なことのように思うが、アートは複雑だな。

今日のシンポジウムではそこらへんがとっちらかってる感じがした。ここをあいまいにしているとせっかく人数があつまってもゆるいくくりしかできない。
グループ展と個展だったら個展の方が面白いという話も出ていたが、そりゃあそうなるだろう。
でも現代アートのグループ展って、企画いかんによってはものすごい可能性がありそうな感じはする。

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イラストレーションは、はじめから社会的なもので、発注を受けて描くという制約、印刷等で頒布されるという制約があるが、展示したくなかったらしなくても良いという点では、非常に自由でもある。(そのかわり、量や質感や大きさやなにかで圧倒することは難しい。)
アート系の学校を出ている人は、慣れてるのか、さも当然のように作品を展示するけれど、作品を作ることと展示することは、わたしにとっては全然別のことだ。
展示するために作品をつくるのってしんどい…。

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で、なにが言いたかったかというと、グループ展の準備が進まないよー、ということと、わたしはイラストレーターでいいや、ということ。
とはいえ、わたしもここのところ企画力の必要性はちょっと感じているのだ。
展示うんぬんとは別の次元で、今までちょっと受け身すぎたかなあと。
あー理屈こねすぎたかな。頭でっかちかな。どうも失礼しました。