空気が読めないことについて

KYという言葉がはやるのは、空気が読めない人々が一定の割合で存在するからで、つまり、空気が読めないのはそれほど特別なことではないということだ。

空気が読めない、という言い方から、なんだかイヤな感じを受けるのは、自分と感覚が違った奴はみんな排除したい、という気持ちがみえて、空気が読めない人に対するやさしさがないからだと思う。空気を読んで危険を遠巻きに回避することイコールやさしさ、という暗黙の了解で、その空気を読めない人にはやさしくする必要がないみたいなことになっている。
空気を読むことで、他人を尊重してるようでいて、その他人の中には、はじめから、空気の読めない人は含まれていない。

でも、いくら無視したって、空気を読めない人々がこの世からいなくなることはない。

わたしは空気は読めないが、ちゃんと言葉で説明してもらえば理解することはできる。
言われたことで傷ついたとしても、それはたいした問題ではない。
なにしろ、読めないものはどう頑張っても自力では読めない。わかってるのにわからないふりをしているわけじゃなく、読みたくても読む能力がない。

だから、まったく気がつかないよりは、言われて傷つくほうがまだましなのだ。
ちょくちょく傷ついていれば、傷つくことに免疫もできるし、治らないほど傷つくことって実際そうめったにないと思う。
なにがなんだかわからないという状況が、いちばんおそろしいし、傷も深い。

個人差はあるにせよ、ある状況から一人の人間が読みとれる情報量には限界があるはずで、空気が読めていると思っている人も、じつは重要な情報を見落としているかもしれない。

空気が読めない人は読めない人なりに、なにかしらの情報は読み取っているはずで、じつは、他の人間が見落としがちな情報に気をとられているのかもしれない。

だから、空気を読むのが得意な人は、そのことに慢心せずに、読むのが苦手な人に、その場の空気の意味を教えてあげたっていいと思う。
そこからお互いに意外な発見があるかもしれないとか、前向きに考えられないものかな。
思いやりというとみじめだけど、役割分担なんだと思えばいいんじゃなかろうか。
KYという言葉が言い放たれた時点で、そういう可能性がすべて消えてしまうのは残念だ。

わたしも、空気を読む能力を持った人に対する敬意はいつも忘れないでいたい。

とはいえ、その場の空気の意味を教えてもらって理解したところで、みんなに合わせて行動するのが正しいのかどうかは、また別の問題だし、合わせることを選んだとしても、うまく合わせられるかというと、たぶん出来ない。わたしのような奴はへたに空気を読まないほうがのびのびと生きられるってことだ。

そういうとこが煙たがられるんだろうけどさ!