美術展めぐり」カテゴリーアーカイブ

医学と芸術展

森美術館「医学と芸術展」に行った。
招待券をもらっていたのだけど、あんまり興味がわかず放置していたら、ついったーでフォローしてる方々の評判が良いみたいだったので、最終日の夜に見に行くことにした。

大隈重信の使っていた義足、妊婦の解剖図や模型、貞操帯、手術の道具、バイオテクノロジーを使った作品、などなどなど、学術的なものから変態じみたものまでずらり。
インプラントの手術をしたばかりなのもあり、いろいろ考えさせられた。こういう方向のアプローチもあるのだな。

一番心に残ったのは、亡くなる直前と直後の顔の写真を並べて展示したもの。閉じられた老人のまぶたの皺の美しさが印象的だった。

早川良雄 ー“顔”と“形状”ー

国立近代美術館・ギャラリー4で、昨年亡くなられた早川良雄さんの回顧展を見た。

ポスター、雑誌の表紙などのデザインとイラストレーション。
それほど大規模な展示ではなかったけど、どの作品もさすがのクオリティで、特に、顔のイラストのインパクトの強さには圧倒された。
すごくお洒落で、力強くて、洗練されていて、大人っぽくて、自立した感じ。
百貨店のポスターとか、あまりにもカッコ良過ぎて、このイラストを見てお買いものに出かけた昭和の人々は、どんなに大人っぽい感覚を持っていたのだろうかと驚いてしまった。

映画と絵画の境界線

きょうは、渋谷のアップリンクで行われた、短編フィルムの上映会に行った。
映画評論家で多摩美の先生でガンホ会の発起人、大久保賢一さんのプロデュース。
行く途中、渋谷駅前のスクランブル交差点で背後から前川さんに声をかけられた。目的地が同じとはいえ、大混雑の渋谷駅前でばったり、ってなんかすごい。

映画と絵画の境界線上にある作品、ということで、ほとんど停止してるようにみえるけど実はじわじわと動いていたり、カメラの位置がずーっと固定されてたり、物語がないもの、アニメ的な表現のもの、いろんなのがあって、それぞれすごーく面白かった。

前衛的な映像作品は美術館でよく見かけるが、映画とは別のものだと思ってた。
わたしは美術館で映像のコーナーがあると、素通りしてしまう場合が多い。
まあ映画も見ないし、映像のような時間的表現にほとんど興味がないこともあるが、美術館では絵のようにスクリーンが展示されていて(美しいのは確かだけど)、椅子がないから、じっくりみるには地べたに座り込んだりしなきゃいけないので困る。(絵だったらぼーっと同じのを何十分も眺めてたりするのにな。)

でも大久保さんは、こういう短編を映画館で上映したいと話されてて、ああそうか、こういうのもやっぱり映画の一種なのか、と思った。
大久保さんは「映画が映画館を出て美術館に進出している」という感覚のようだ。
サイレントの作品では、映写機の音がよく聞こえるのも面白かった。

映画の後は、大久保さんと音響家の森永康弘さんとのトークショー。
「音」を中心にこの世界を把握しようとしている人とは、同じ世界に暮らしていながら、まったく違ったパラレルワールドを見ているのだろうなと思う。
アルタミラの壁画の話が出て、うわ行ってみたいと思ったけど、公開されてないらしい。

わたしは、絵と映像の境界線ははっきりあると思っている。境界線のある場所は、人によって変わると思うけど。

自分の絵が具象だからかもしれないが、絵は、やっぱり基本的には、連続する時間のなかの大切な一瞬を永遠にとじ込めるために「切り取る」ものだと思う。
その時間が、現実の時間であっても、架空の(小説とか)の時間であっても。

なにかが最も素晴らしく見える瞬間の色や形を選び抜いて切り取ろうとしているのに、それが変化してしまったら切り取った意味がなくなってしまう。
映像から見たら絵は静止してるものに見えるかもしれないし、静止することも「動き」の一部ではある。

でも、切り取った絵は、動かないけど、動かないだけで、止まっているわけではない。だって絶対にそのあとで動き出したりはしないから。
さらにいえば、絵というのは写真とも違って完全に絵描きの脳の中で生まれた作り物なので、その前後の瞬間なんて初めからなかったかもしれないのだ。

絵は、人間が手で描くものだから、描くためには一定の時間が必要だし、一枚の絵の中には、絵描きが異なった時間に見たり考えたりしたものが混ざっている。
描かれたものをみるのは一瞬でできるから、絵画の中に動きを内包させることも可能だ。
一瞬で全体をみられない、絵巻物のような表現は、映像にかなり近い。壁画も、場合によってはそうかもしれない。
しかし、やっぱりそれは映像作家が描きたい動きとは違うような気がする。(絵巻物の時代には映像はなかったからくらべられないけど)

絵描きは絵を保存しておこうとするし、映像の人は動きを記録しようとしているし、一番大事なものも、作る動機も、目的も、もともとまったく違うんじゃないかと思う。
一人一人の人間の感覚の違いは、ここまで大きいのだ(小さいような気もするが)。
でも、一番大事ではなくても面白いものは面白いので、今日の上映を見られて良かった。

そのあと、大久保さんの奥様で、4月のソウル観光でもご一緒した京子さんや、大久保さん、森永さんやその大学のお仲間たちとみんなでまた飲みに行った。
前川さんとはここ4日のうち3日、一緒に飲んでる。。。感動のあまり、大久保さんに感想をわーわーとまくしたててしまった。。。

終電で帰宅したらFAXが届いてて「屋久島取材日程と注意事項」と書いてある。まったく心当たりがなく、たまげながらも、ええっ1/5出発!もうすぐじゃんとか、うーん飛行機イヤだなあとか、登山靴なんて持ってないよとかいちおう考えてから、よく見たら別の方に宛てたものだったので、ひと安心しましたとさ。

手作り市/東京コンテンポラリーアートフェア2009

今朝、家中のあちこちになにやら豆板醤のような赤いものがついていた。???と思ったらいつのまにか自分の指先が切れて血が出てた。。。わたしの血液は李錦記の豆板醤と同じ色。

Sちゃんと、大学時代の友人が出店していた雑司ヶ谷の鬼子母神「手作り市」へ。鬼子母神ってはじめて行ったけどいいとこだった。銀杏の大木が紅葉してきれい。

境内は出店者とお客さんですごい混雑で、めあてのお店をみつけるのに一苦労した。
そこらじゅう、髪飾りやら焼き物やらバッグやらお菓子やらいろんな手作り品の山。
フリマかあ~と思って気軽に行ったのだけど、けっこう見ごたえがあった。商売でやってないからか、ひとつひとつ丁寧に、いい材料使って作ってるし。それになかなかいい値段つけてた。名刺置いてるプロの人もいるみたいだった。
デザフェスとかでこういう雑貨を売ってるのみると、それどうなのよって思うけど、こういうとこで売ってるのみるのは、同じような品物なのに、素直に楽しい。

そうだ、ちょうどわたしもグッズのお店の内装やってるんだった。。。
わたしはグッズ作りには興味がなく、絵はがきと、トートバッグ(お店で作ってくれた)くらいしか置いてないんだけど、お店に置かせてもらえるのってラッキーなことだし、これはわたしもなんか作らねば。と、にわかにやる気をおこしたのだったが、そのまえに壁画をしあげて、DMも作って送らないといけないな。。。

それから池袋の東武百貨店で日本画の展示を見た。Sちゃんは日本画をやってるので。若い作家さんだったけど、すごく丁寧で明るい気分になるすてきな絵だった。
日本画は海外では売れないというけど、日本家屋にはやっぱり日本画が一番合うと思う。

そして東京コンテンポラリーアートフェア2009(御成門・東美アートフォーラム)へ。
アートフェアって一人で行くといつもざっと見てすぐ出てきてしまうのだが、友達と行くとゆっくりみることになるのでいいかも。

なんか小さい作品が多くて、売る気満々な感じ。まあアートフェアだから当然だけど。
で、またどれもこれもすっごく丁寧に描かれてるんだ。。。工芸品みたいに。
わたしはちょうどでっかくて雑な(笑)絵を描いてる最中なので、ああやっぱり丁寧に描かなきゃいかんな~、とつくづく思った。
越谷に通う回数をできるだけ増やそう。お店が終わったら撤去されてしまう壁画でも、どんな仕事でもちゃんと描かねばいかん。お金じゃなくて、プライドの問題だ。。。

そのあと英会話教室へ。今日でやっと50回目(1年で100回のコース)。最初の予定より2ヶ月以上遅れてるけど、もういっぱいいっぱい。
それでも一回が3時間だから、予習復習も入れるとけっこうな時間勉強してる。
そのわりには、ほんとにわたしは覚えるのがゆっくりだ。
でも最近はようやくビビらずにあいさつくらいならできるようになってきた。その日のコンディションにもよるんだけど。来年もう一年通えば話せるようになるような気がする。

参詣曼荼羅

今月は、仕事で鍋焼きうどんの絵と、もんじゃ焼きの絵を描いた。
いま描いてるのは富士宮焼きそばがテーマ。。。B級イラストレーターっす!
「なんでもいいんで岩清水ワールドでお願いします」と言われたんだけど、(焼きそばそのものを描かなくてもいいらしい…)富士宮焼きそばって食べたことないし、それはつまり岩清水ワールド圏外ってことなんじゃないかな…。(東京にもいくつかお店があるみたいだから近いうちに食べたいけど)

などと思いつつ、いろいろ調べてるうちに、富士山本宮浅間大社にある、狩野元信?作の「富士参詣曼荼羅」に行き当たった。この図柄が、わたしがイメージしてた構図にすごく似ていたので、興奮してさらに調べたら、参詣曼荼羅というジャンルがあるらしい。
富士山の他にもいろんな山やお寺のものがあって、構図もだいたい同じ。
日本の曼荼羅っておごそかな感じのものが多い気がするのだけど、参詣曼荼羅は、生き生きしていて、とくに、月と太陽の表現が面白い。

狩野元信の作品はさすがに高級な感じがするけど、チベットあたりの絵みたいな素朴な雰囲気のものもある。ゴーギャンの「我々はどこから来たのか…」みたいな要素のある絵もあった。共通するのは、いろんな情報が描き込まれた、地図みたいになってるとこ。
こういうのを見た昔の人は、富士講や、お寺の参拝に行きたいと思っただろうな。夢の国みたいだもの。わたしも富士山に登りたくなっちゃいそうだ。
いいなあ。。。画集とかあったら欲しいなあ。

コレクター

きょうは、アート・コレクターのTさんのコレクションの展示を見に行った。
そもそも、わたしは他の人の絵の価値があまりよくわからないし、絵を買うよろこびも正直言って理解できないのだけど、買うことの先には、集めるよろこびがあるのだなあ。なるほど。。。
さらに、集めたものをみんなに見せたい人と、こっそりしまいこみたい人がいる。
わたしは、何かを集めるという趣味も全くないので、やっぱりわからない世界だけど。
でもなんだかとても楽しそうだった。

コレクターの世界では40代でも若手だそうだ(まあそうかも)。しかし世の中には、生まれついてのコレクターという人もいるのだ。
Tさんは、デザインフェスタとかにも毎回足を運ばれるそうで、そこで安く購入した絵の作家さんが、今では超売れっ子になってたりするんだそうだ。
あのデザフェスの混沌の中からいいものを見つけ出すってすごいことだと思うんだけど、わかる人にはいとも簡単に見わけられるものなのかもなー。

謎のデザイナー 小林かいちの世界展

きょうは、ニューオータニ美術館「謎のデザイナー 小林かいちの世界展」へ。
最近になって注目されたそうだけど、大正~昭和初期に京都で活躍した図案家。封筒とか、絵はがきのデザインをたくさん手がけたらしい。
でもそれは10年間くらいで、その後は友禅の図案をしていたという。
そんな、経歴もはっきりわからない人が再評価されてるってすごいことだ。

かいちの作品は、アール・ヌーボー調で、ちょっとエルテ風のものもある。
金色・銀色の使い方と、薄紫のグラデーションの美しさが印象的だった。
一枚一枚を単品で見ると、絵としての完成度は高くないが、たくさん並んでるのをみると、なんともいえない情緒があるし、素朴な木版の印刷が味わい深くて、とにかくセンスがいい。

人物の顔はほとんど描き込まれてないし、手の描き方なんかも少し適当だけど、たぶん仕事が速くて、ものすごく大量にデザインしてたんだと思う。
これは絵はがきなので、買った人が上に文章を書き込んで使うには、このくらいスキのあるくらいが、邪魔にならなくてちょうど良いのかも。
世相に敏感に反応して流行を自由自在に取り入れたり、図案家に徹してるなあ、仕事人だなあ~、って感じだった。

意外だったのは、この絵ハガキを使ってたのは主に女学生だったということ。
昔の女学生、大人っぽいな!うーん、たしかに嘆美的なんだけど、少女趣味とはちょっと違うような?いや、同じなのかな?よくわからないな。
これを今このまま真似すると、関西マダム風味になっちゃう気もする。
本物は素敵なのだけど。。。

絵ハガキって、絵をかく人はみんなわりと気軽に作るし、名刺代わりに使ったり、展示のついでに販売したりしてるけど、元々、一般に広まったのは、日露戦争の時に、戦地の兵隊さんと手紙をやりとりするために使われて、大流行したのがきっかけだそう。
ハガキひとつとっても、歴史とか政治とか、関係してたりするのだな。

だめんず・ゴーギャン

きょうは昼過ぎに友人Kと待ち合わせて、うな丼を食べてから、国立近代美術館「ゴーギャン展」へ。入場の行列ができてるかと覚悟してたのだが、全くそんなことはなく、館内に入ると絵の前に人だかりができてたけど、絵の点数自体が少なかった。

ゴーギャンは34歳のときに画家になる決意をしたそうな。
遅いスタートだって説明書きがあった。まあ、遅いっちゃ遅いか。

で、妻子を捨てた上に、モデルの女の子を妊娠させたままタヒチに行っちゃう。
ゴッホが耳を切っちゃったのだって、ただゴッホの気が狂ったんじゃなくて、どうしても切らずにいられなくなるような酷いことしたんだろう、ゴーギャン…。

絵は、どれもギラギラした生命感にあふれている。でもものすごく暗い。
あんなに強い色彩を使う人なのに、印象に残るのは暗闇の黒だ。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の絵、ずっと見てみたいと思っていたのだが、実際に絵の前に立ってみたら、さほど心を動かされなかったので、拍子抜けしてしまった。迫力はあるし、気合いは伝わるんだけど、なんだか理屈っぽくって。

この絵を描いたときにすでに健康を害していて、本人が、もうこれ以上のものは描けないと言ったらしいが、最後の部屋に展示されていた、最晩年の絵が一番いいと思った。
たしかに、元気な時に比べて人物の影が薄いし、構図も計算されてないけど、肩の力がぬけていて、背景の木々の描写がやわらかで、素敵だった。

でもやっとタヒチになじんだのかと思ったら、最後はさらに遠い島に行っちゃう。
気狂いになることも、自殺することもできない人だったんだろう。

見終わったあと、友人Kと、二階のカフェの木陰のテラス席で、ぼーっとお茶。

「ありゃあ…ダメ男だね。」「最低だね。」
「ゴーギャンの絵は、うな丼と同じ種類のものだったね。」
「“わたしは”じゃなくて“我々は”どこから来たのかだよ。」
「わたしらも、どこから来たのやら。」
「どこへ行くのやら。」

などと言いあった。

夕飯は、新宿「ハレルヤ」で韓国料理。よしながふみの漫画に出てくるお店。そりゃもう、鉄板で美味しいでしょー。
ううー、また食べすぎたー。

メキシコ20世紀絵画展

梅雨が明けて、真っ昼間の砧公園は、緑がギラギラ。
きょうは占い師Sさんと、世田谷美術館「メキシコ20世紀絵画展」に行った。

フリーダ・カーロの「メダリオンをつけた自画像」が目玉。
小さい絵なのに、これが一番最初にぽつんと1点だけで展示されていた。
確かにほかの画家たちとは明らかに違う、なにか超越した感じがあった。

わたしのお目当ては、フリーダの夫、ディエゴ・リベラの「夜の風景」。
本物を見られるとは。絵の前でじーーーーーっと立ち尽くしてしまった。

昔、実家にあった美術書でよく眺めていて、すごく印象に残ってたのだけど、題名も、画家の名前も、描いたのがメキシコ人だということも知らなかった。
で、この展覧会のチラシに「夜の風景」の写真が載ってたのを見たときは、ええっ、これ描いたのってディエゴ・リベラだったのか!と、ヘレンケラーがウォーターと言った瞬間のように驚いてしまった。
リベラのほかの絵はMOMAとかで見たことあったのになー。

ほかは、メキシコ革命を描いた絵とか、力強いけど暗い絵ばかりで気が滅入った。そういえば昨日見たエリザベートの夫、フランツヨーゼフ1世の弟は、19世紀に銃殺されたメキシコ皇帝、マクシミリアン1世だったな。不幸だ。。。

ホセ・グァダルーペ・ポサダのイラストを集めた展示も面白かった。悪趣味なゴシップ記事とかに添えられた、なにやら不穏な挿絵。
素朴というのは違うけど、洗練されているわけでもなく、ただ凄みがある。モチーフは骸骨が多くて、これが人々に大人気だったそう。

かの地では生け贄の髑髏を祭壇に供えるというから自然に受け入れられるのかも。
日本の「新聞錦絵」の、いわゆる「血みどろ絵」を思い出した。
でも血みどろ絵ほど凄惨な雰囲気ではなく、もっとからりとしていたけど。
これがメキシコ絵画に影響を与えたのだそうだ。ふーん。

それからSさんと、夜までえんえんとおしゃべり。カウンセリングの勉強もしているとのことで、さすがの聞き上手。
いろいろ話してるうちに、次にやりたいこととかが、少し明確になった気がする。

アートフェアはしご

夕方になってから、アートフェア東京(東京国際フォーラム)の見物へ。
2~30分くらいでさっくり見終わってしまったので、急いで秋葉原に移動して、101TOKYO(アキバ・スクエア)に、クローズ時間15分前くらいに駆け込んだ。
わたしは101TOKYOのほうが面白かったな。目的が明確で。もしわたしがバイヤーならこっちで買うと思う。なんとなく雰囲気的に。
でもそれよりこないだ見た美大の卒展のほうが面白かったような…。

それからオープンしたての「エチカ池袋」へ。いちおう挿絵の取材。池袋にはなじみがなく、大阪と同程度の土地勘しかないので、少し迷った。*

ペンタブ導入して、絵を描くのは確かに速くなったのだけど、東京に戻ってからというものわたしのほうが腑抜け気味。

明日からはビッとしよう。。。

第2回初台現代音楽祭~現代アートとノイズの夕べ~

「第2回初台現代音楽祭~現代アートとノイズの夕べ~」(初台The DOORS)に行った。
銀座芸術研究所の森下泰輔さんと、灰野敬二さんのノイズミュージックのライブと、60年代の伝説のハプニング軍団「ゼロ次元」の復活パフォーマンス。
先日展示でご一緒させていただいた管間圭子さんのインスタレーションなどもあり。

ノイズの演奏は、ものすごい爆音が永久に続きそうな感じがしていたので、終わったときはびっくりした。よくわからないがバイオリズムがはまるといいのかも。

ハプニングのほうは、裸の人たちと、コスプレの人たちのコラボによるパフォーマンスと、総帥・加藤好弘さんによるアジテーション。どアングラ。。。
わたしなどはうかうかと遊びに行ったのだが、知らないうちに、その場に「結集」したことになってしまったようだった。

小劇場演劇とかときどき見るからそんなに違和感は感じなかったけど、パロディでやってるんじゃなく、真剣なところがすごい。
アートとは時代の流れに乗ることなんだとか、「女性崇拝」とか、よくわからない点やつっこみどころはたくさんあるが、やむにやまれずやってるんだったら、とやかく言ってもしょうがない。

いまだに学生運動の時代の空気や、西欧文明や大阪万博に対する怒りや、岡本太郎と太陽の塔に対する愛憎を、新鮮に持ちつづけているのは恐ろしいことだと思った。
何十年経とうが、ひとりの人間の中では、過去が過去にならないこともあるのだ。

60年代にハプニングをやることが、どの程度衝撃的だったか今となっては想像もつかないし、彼らの活動が一般的にどう受けとめられたかは知る由もないけれど、なんでもありの現代でさえ、たしかに裸の人間が並んでいるのはショッキングではある。

ただ、裸のパフォーマンスはどうもエログロ系で似たようなものになりがちな気がする。
それだけああいうのが好きな人が多いのかしれないが、実は裸ってすごく難しいのでは。
若手のダンサーとかでも白塗り系の人っていまだにいるし、いつの時代も、ハダカになってステージで踊りたがる人って、一定の数いるみたいだ。(そういう人って単純に身体に自信があるんだろうなと思うんだけど。実際きれいだし)

そういえば昔、前川さんと二人芝居をした元ハイレグジーザスの山田伊久磨さんが、舞台で裸になってるときは頭の中がすごくクリアになると言っていたなあ。

今日の舞台に乗ってた人全員が大阪万博に反対しているとはとても思えない。
もちろんはっきり意志を持って参加する人もいるのだろうけど、人数が増えていくと、コスプレしたり脱いだりして集まって何かしたい、でも何をしていいかわからない人が、強い怒りやその他の感情を持った人の周りに結集してしまうような気がして怖い。

それにしても、そもそもハプニングというアート的な発想と、政治思想って、本質的には全く別のことだと思うんだけどな。

しかしわたしの絵もときどきガロ系っぽいとか言われるしなあ、こういう場に出くわすってことは、なんか一脈通じるとこあるんだろうか…。

タイム・クレヴァス

きょうは横浜トリエンナーレに行ってきた。
大学の先輩が出展されてたので(すごいなあ)。

全体のテーマが「タイム・クレヴァス」ということで、時間や、歴史の表現として、映像、光、音を使ったもの、それにパフォーミングアートが中心だった。
わたしには時間を連続的に把握することが非常に困難なので、映像を見るといつも戸惑ってしまうのだが。。。すごく面白かった。

ああ、見つめるだけじゃだめだなと思った。
いったいなにを見つめているのか、わからないまでも探ろうとしなくては。(もしこれから行かれる方は、有料の音声ガイドを借りたほうがいいです。音声ガイドがないと成立してない作品があったので。)

夜は、前川プロジェクトの初顔合わせ。
赤坂の「やさい村 大地」で。サムギョプサルってはじめて食べた。みたことない野菜が山盛りで、おいしかった。
だらだらしゃべるだけなのかな~と思ってたら、なんか話がどんどん進んでいって驚いた。
おー、プロジェクトって感じ!(いつもひとりで仕事してるから新鮮~)

さ、明日からは、しばらくひきこもるよ!

ダニ・カラヴァン展

きょうは世田谷美術館「ダニ・カラヴァン展」に行った。

まず入り口の梯子とお米のインスタレーションにびっくり。
次の、背景に砧公園が広々と見える部屋のインスタレーションも清々しかった。あの展示室に、あんなすてきな窓があったんだなあ。

他は設計図や模型や映像での紹介だった。
作品の性質上仕方ないけど、もっと大きいやつを観たかったな。(わたしは映像による展示を見るのはどうにも苦手なのだ。)

それにしてもあの大がかりな環境彫刻を作る人が、なんと挿絵描きからスタートしたっていうんだからすごいよなあ。(そりゃあ確かにいきなりあんな大きなものを作れるわけないけど。)
ダンスなどの舞台装置もたくさん手がけたのに、結局、舞台は後に残らないから彫刻の道にすすんだというのには共感できる。

あれだけ変化しているのに、初期から現在まではっきり一貫したものがあった。
初期のイラストも良かったが、彫刻と同じ風景の、海のコラージュが良かったなあ。
彫刻を先に作ったのか、コラージュが先だったのか。

頭の中にある夢みたいな風景を、紙に写すだけじゃなくて、建築みたいに実用性があるわけじゃないのに、実際に作っちゃうなんてすごすぎる。スケールの大きさに脱帽。

こういうのが千年後くらいには謎の古代遺跡になるんだろうか。
「平和」みたいに大きなテーマを持つと作品スケールも大きくなるのかも。

常設展の「アウトサイダー・アートの作家たち/大地の歌を描く人々」も面白かった。障害を持った作家たちの作品展(どういう障害なのかわからなかったが)。
じつはこっちのほうがわたしにはヒントになる感じだった。すごい自由さに参ってしまった。

キャンバス地を木枠に張らずに描いたり、油性ペンで描きなぐってあったり。
わたしもふだん下絵はマジックで描いてるので、かなり刺激的な展示だった。

アヴァンギャルド・チャイナ

アヴァンギャルド・チャイナ―〈中国当代美術〉二十年―展(国立新美術館)に行った。
中国は、他の国々でモダニズムが終わった後に、一気に現代美術に触れたっていうんだから面白い。

「表現の自由を回復する有効な手立て」としての現代美術。そうかあ、そういうものかあー。
やはりモダンというよりアヴァンギャルドという呼び方が合っている。前衛というか、アングラというか、すごく攻撃的。

作品からは切実なエネルギーを感じたが、全体的にかなり暗いエネルギーだった。
他の国々のアヴァンギャルドに比べても「お洒落さ」が抜けてると思う。
でも、政治的だったり、社会的だったり、明確な敵が存在していて、芸術運動の集会の資料とか見ても、なんだかむやみに臨場感があった。
外国人からみても、作者の感情や動機や、やむにやまれぬ衝動がありありとわかる。言葉に変換してああだこうだと言いやすいし、批評されやすいと思う。

政治とか経済とか戦争とかが歴史のメインストリームなのだろうが、美術は、それとは別の流れで(もちろん政治とまったく切りはなすことはできないが)、批評的に、世界なり時代なりを俯瞰するためのきっかけとして利用されているのだ。
それはそれで面白いけど、美術は本来個人的なことのはずなので、とても不思議だ。
個人的でも、世界に開かれてるものと開かれてないものとがあるということか。

最近の中国美術は、政治的なテーマから離れる傾向にあるようだけど、逆に言うとちょっと前までは芸術家も政治のことで頭がいっぱいだったんだな。

今、中国の政治家は美術をバックアップしてるらしい。政治経済だけでなく、文化が認められなければ一流の国になれないからだそうだ。
中国の作家は国のために絵を描くという意識を持って活動しているのだろうか。
売れる作品は人を集めて大量生産したりもするそうなのだが、そういう姿勢は社会主義と関係あるのだろうか。それとももっと昔からそういう傾向があるのだろうか。

エミリー・ウングワレー展

今日が最終日なのであわてて新国立美術館に見に行く。わたしはこういう絵はとても好き。生命力、エネルギーのあるものに人は引きつけられる。エネルギーは、思いの強さで、思いの強さは、内的必然性の強さだ。
たぶん西洋哲学なんか知らないアボリジニーのおばあさんがあんなものを作ったんだから、そりゃあ美術界が騒然となったというのも当然だろう。

でも最初にキャンバスに描いた作品からいきなり注目を集めたなんてちょっと不思議だ。
単純に、だれか仕掛けた人がいるということだろうと思う。砂漠の真ん中に住む80歳のおばあさんに特大のキャンバスと制作スペースを与えた人が。
ちゃんと応えたエミリー・ウングワレーもすごいなあと思うけど。
説明文にはアボリジニーのための教育プログラムとしか書いてなかったが、そこのとこをもっと突っ込んで説明して欲しかったな。(それにしても制作点数が3千点から4千点って。千点も差があるのはなぜ。)

そのあと、単行本の挿絵の打ち合わせ。
最初は、このテーマにわたしの絵でいいんだろうか…なんて思っていたのだが、編集さんがものすごく熱心で、うまく乗せられた感じ。これは、いい前兆かも。