雑記帳」カテゴリーアーカイブ

ウエディングドレス

夏に妹がお嫁にいくことになった。たいへん喜ばしいことである。
妹とは全く性格が違って、姉妹じゃなければ友達にもなってなかったかもしれない。
でも、妹のことはわたしが守らなきゃという気持ちがどこかにずっとあったので、これでひと安心というか、なんとなく開放されたような気分になっている。

今日は、上京してきた母と3人で、ウエディングドレスの下見に行った。
めったにない機会なのでいちおうワクワクしてはいたのだが、もともと、わたしも母も、肝心の妹も、ウエディングドレスというものに関心がない。
一般に女の人たちは、ほんとにウエディングドレスに憧れたりしてるんだろうか。メディアに踊らされてるのか?それとも憧れているという思い込みなのか?
女の気持ちはわからないと言う男性がいるが、まったく同感なのだった。(かといって男の気持ちがわかるかといったらとうぜんわからないけど。)

でも、4着ほど試着したのを見ると、どれもなかなか似合っていたし、まわりで試着していた他のお客さんたちもみんなそれなりだったので、誰でもそこそこ似合うようにできているものなんだなと思った。

それにしても、あれはいったい誰に見せるためにドレスアップするんだろう。
結婚相手にきれいな姿をみてもらいたいということならわかる気もするが、彼は本番の前に試着したのを見てしまうわけだし。じゃあ父か?

ウエディングドレスってのはお嫁さんの制服みたいなものだ。(よくみればいろんなデザインがあって、まったく無個性なわけではないが。)わたしは、制服を着ることで、何かに帰属するのにはまったく興味がもてない。
ウエディングドレスと叶姉妹のドレスなら、叶姉妹のドレスのほうが好き。べつに着たいわけじゃないけど。だってあんなのは叶姉妹にしか着こなせない。

どちらも過剰なものではあるが、過剰さのベクトルが違う。
叶姉妹のプロポーションでは、市販のドレスは着れないだろうし、恭子さん自らデザインするしかないんだろうが、本人たちのキャラクターにあれだけ似合っているのは素晴らしいことだと思う。
あれも、叶姉妹の制服と言えなくもないが、ほかの人が着ても叶姉妹にはなれない。

わたしはふだん、洋服で自己表現をしたいとは思わないほうだけど、どうせなら、ただきれいにみせるのではなく、自分にほんとに合ったものを着たい。
だから市販の洋服とかは、いくら素敵でもピンとこないし、ほんとにしっくりくるものは自分でつくらないといけないんだろうな。
めんどうくさいからやらないけど。

後悔

忙しくしていた間に、お豆腐を一丁、ダメにしてしまったことが悔やまれる。
食べ物を捨てることほどイヤなことはない。
ゴミ箱にお豆腐を捨てながら、心がグラグラ揺らぐのを感じた。
冷蔵庫にはずっと捨てられないジャムが入っていて、それを見るたび胸が痛む。
食品会社には勤められないなあ。

いくら賞味期限切れでも、まだ食べられる品物の山を前にしたら、それを口にする、見ず知らずの人々のことを考えるよりも、とにかく捨てたくないと思ってしまうのも、また人情なんじゃなかろうか。
その気持ちを抑圧して、毎日捨てていたら、いつか気が狂ってしまうだろう。

肉にするために動物を誰かが屠殺しているように、誰かが食べ物を捨てなくてはならない。
それを見ぬふりをしたところで自分が救われるはずもないけれど、なるべく食べ物は大切にしたいものだと思うのであった。

ギリギリ

昨日、宅急便を出すために、近所の営業所まで持っていこうと、久々に表にでた。
それでちょっと走ろうとしたら、思った以上に足腰が衰弱していた。
ふだんから、しらふでも千鳥足ぎみのわたしではあるが、これはひどい。膝が笑って、思うように進めず、まるで纏足した人みたいによろめいてしまった。
なんの準備もせず宇宙から帰還した人のように、と言ったほうがいいか。(いや、そこまでじゃないか。)

3週間以上もひきこもっていたわりには体調は悪くないと思っていたのだが、走ったはずみでバランスが狂って、全身がへんになった。
ほんとにガタピシって表現がピッタリで、つらいというよりちょっとおもしろい。
さらに、今日になったら足が筋肉痛でバシバシになっていた。

で、昼ころ、ここんとこずうっと懸案になってたお仕事がひと段落ついた。
わたしの絵の場合、下描きと仕上げの時以外は延々と単調作業なのだ。何が苦手って単調作業ほど苦手なものはないというのに。
長丁場だったのでなかなか集中力がもたなくて、もう永遠に終わらないかと思った。最後のほうはさすがにかなり集中してやったけど。

それから大あわてで今日が提出期限の確定申告の書類作成にかかる。
計算が合わなかったりして、かなり焦ったが、どうにか今日の消印で郵送できた。
はー…。

ところで同時に準備を進めていた新聞挿絵のほうは所々の事情で5月からになりました。

あー、自由が丘に行きたいな。そんでただぼけーっとしたい。
それかどっか水族館の熱帯魚の水槽の前でぼけーっとしたい。
あとはラクーアに行きたい。遠くの温泉まで行く気力がない。
ちょっとずつリハビリしなきゃなあ。

でもそういえば来週またグループ展があるんだった。描くのは1点だけだけど。どうしようかな。まだこないだの展示のお礼状も出してないな。

そうそう、友人Bちゃんに頼まれてたフィギュアスケートの応援旗も大急ぎで作ったので、世界選手権を録画しなきゃいけないんだった。
まずは押し入れにしまい込んでるテレビを掘り出して接続しないと…。

小確幸

フレンチトーストのマイブームはまだ続いていたのだけど、味的になんとなく納得がいかないままだった。豆乳を使ってるせいかなと思ってたのだが(だって豆乳は備蓄できるんだもん)、さっき、偶然、今まででいちばんわたし好みのができた。
卵液にはお砂糖を入れないほうがふわふわになるみたい。そんで、焼いてからシナモンとメープルシロップをたっぷりかけるのだ。

たいやきくんの自意識

「およげ!たいやきくん」って、不思議な歌だ。
毎日毎日「ぼくらは」鉄板の上で焼かれては食べられ消えていく。
そんなたいやきの宿命を「いやになっちゃうよ」と思っている、「ぼく」の自意識は、明らかに、ある一匹のたいやきの身体の外部にある。
すべてのたいやきは、たいやきくんであり、たいやきくんではないのである。
自分が釣り人に食べられる瞬間さえも、クールに観察している、彼(彼ら?)にとって、自他の境界はいったいどこにあるのだろうか。

籠城中…

実家の母から支援物資が届いた。
自分で自分を兵糧攻めにしている最中だったので(ダイエット的な意味ではなくて)、たいへんありがたく受け取った。

半覚醒の日々

ずっとお家のなかにいると、時間の感覚が狂う。
窓の外は、明るくなったり暗くなったりしているけど、明るい時はずっと明るいような気がしていて、暗い時はもうずっと暗いような気がしている。
冷蔵庫の食糧の減り具合で時間の経過を知る生活。
気がつけばもう木曜日だ。

メールってむずかしい

30分以内にメールの返信が来ないと嫌われたんじゃないかと思うってのは、(よっぽどヒマなやつなんだろうなあと思うが、)それはつまり、メールの内容、メールの言葉を信じていないということで、いかに空虚な、うわっつらだけのメールがかわされているかということだ。

そうなると、「30分以内にメールの返信が来る」という行為自体から、「わたしはあなたを嫌いではありません」または「嫌われたくありません」という言葉と同じ意味を読み取らなければならないことになって、それがあたりまえになると次には「30分以内にメールの返信が来る」意味さえも、うわっつらになって、信じられなくなってしまうだろう。

ようするに言葉を信じられないってことは相手を信じられないのと同じことだ。信じられない人に嫌われないことに、何の意味があるのだろう。

わたしなどは、基本的に用事がなければメールも電話もしないタイプだから、内容がないのなら、最初からメールする必要もないんじゃないかと思ってしまう。
嫌われてないことを確認して安心するのを目的にメールするんだとしたら、無意味なメールに返信をせまるのってかなりの迷惑行為なんじゃないかねえ…。
お互い様って感じだとうまくいくんだろうけど、そういうのってなんだかひよわだ。

わたしは、メールは、書いたあとで何回も読み直して確認してからでないと送信できないという強迫症状があるので、どうしても時間がかかってしまいがちで、へたするとそのままうっかり送信することを忘れてしまったりもする(←あほだ)。
もしかして誰かを不安のどん底(杞憂です)に突き落としてたりするのだろうか?

まったく誰にも依存しないで生きてくことはおそらくありえないし、まったく他人に期待しないのもつまらないとは思うけど、自分の心を守るために、思い通りにならない他人に期待をかけすぎるのは危ない。

どうせ他人に期待するのなら、みんなに嫌われないよりも、信頼すべき人に、ちゃんと信頼してもらえたらいいなあと思う。

照れ屋さん?

自分ではブログで思ったことをさんざん書き散らしてるくせに、他の人の日記を読むのは(とくに知り合いのは)、照れるというかこっぱずかしいというか、どうにもこうにも、なんとなくイケナイことをしてるような気がして、なかなか見に行けない…。
(はてなアンテナやらミクシィやらで更新チェックはしてるんだけど)
で、ときどきエイッと気合いをいれてまとめ読みすることになるのだった。
パソコンの前で照れてもまったく意味がないのになー。

デコデン

携帯を、念願のデコデンにした。
といっても、めんどうくさいし、けっこう不器用なので、市販のキラキラシールを貼っただけなのだが。
…微妙なものになってしまった。センスないわ、わたし。

記憶のはざま

このごろ小学校を舞台にした絵を描くことが多くて、気になったんだけど、といってもたいしたことではないんだけど、小学生のころって、冬場は教室でコート着っぱなしだったんだっけ?
たしか廊下にフックがあったけど、コート脱いで掛けてた記憶がない。かといって、ずっと着っぱなしだったという記憶もない。

でも給食のときにはコート着てたらおかしいしなあ…。
それに習字の時間とかコート着てやってたとは思えないし。
いすにかけてたのかな。ロッカーはランドセル入れたらいっぱいだったはずだし。それとも、最初からコート着てなかったのかな。

わたしの育った千葉県外房地方は海洋性の温暖な気候で、12月には菜の花が咲く。
自宅と小学校の距離はかなり近かったし、休み時間には(授業中もだけど)教室でずっとお絵描きしてたから、あまりコートは着る必要がなかったかもしれない。
でもわたしもコートは持っていたし、教室の中はけっこう寒かったし、遠くから通ってきてた子はたぶん着てたんじゃないかなあ。

田舎だったし、当時はまわりの子も洋服には無頓着で、毎日ジャージ着てたりしてたけど、上着はどうだったんだっけなあ。
上着を着てるイメージがないってことは着てなかったってことだと思うんだけど。
他の子たちがどんな服装をしてたかというイメージが、あまり思いうかばない。
ビジュアルがうかばないというのは、わたし的にはちょっとショックだ。
うーん、わたしほんとに洋服に興味がなかったんだろうなあ…。
最近の子どもはおしゃれだし、いま描いてるのは現代の子どもだから、思い出す必要もないんだけど、記憶がスッポリ抜けてると、なんだか気になる。

やさしさと気づかいについて

「空気が読めないことについて」の日記を読んだ友人に謝られてしまって、何を謝られたのかわからず、困ってしまった(←すでに空気読めてない)。

あの日記は、わたしの個人的な感想のようなもので、「ああ、わたしは、なんと空気が読めないのであろうか!」という驚きと違和感について考察してみただけで、特定の誰かを非難しようとかそういう意図で書いたわけではない。(言いたいことがあったら直接本人に言うなりメールするなりすればいいんだし、そもそも、わたしに他人を非難する資格なんて始めからないと思ってるので。)なんだかときどき気が合わない人がいるけど、それは仕方がないことだから、次善の策を考えよう、という方向性で書いたつもりだった。
気が合う人とでさえ、いつでもわかりあえるってわけではないんだし。

しかし、直接話すより文章にしたほうが伝えやすいような気がしてたんだけど、うーん、文章ってのも難しいもんだなあ。。。

わたしは、わたしの言葉の行間から気持ちを汲み取って欲しいんじゃなくて、書いた言葉はできるだけ文字通りに受け取ってもらいたいと思う。共感したり疑問を持ったりするのは、その上でしていただきたい。(でも読み方は強制できないんだよなあ!)

わたしにとって、言葉になってないこと(つまり空気)は、意識化されてないことなので、存在しないのと同じことなのだ。(そういう無意識的なことでも、絵になら描けるという言い方も一応できるんだけど、絵描きは、絵に描くことを通して無意識を意識化しているというだけのことだと思う。)

自分で意識化出来なかったことを、誰かに指摘されて自覚することは、とても面白い。
絵を描いたり文を書いたりして誰かに見てもらいたいと思うのは、このためだと思う。
でも、もともと意識化出来てなかったことについて、気づかいされても意味がない。

わたしにとってやさしさとは、ただ、相手を無視しないというだけのことで、それは気づかい(つまり推量にもとづいて考えを進めること)とは全く違う。

わたしはときどき他人の存在をド忘れすることがあって、やさしいとは言えないので、こういうと傲慢かもしれないけど、わたしは誰かに気づかいして欲しいんじゃない。
理解しあうために言う必要のあることははっきり言ってくれなきゃわからないし、言う必要がないなら何も言わなくていい。

すでに意識化されているのに、言わないと決めて飲み込んだ言葉については、飲み込んだ本人が責任をとればそれでいいんだと思うし、そのことで他の人間があれこれ推量をして悩んでも仕方がない。

冷たい考え方かなあ。まあ、わたしはそう思うというだけのことです。
とくに女子の世界ではまず通用しない考えなので、気をつけないと…。
でも気づかいって、ピッタリはまるとすごく気持ちいいものだし、わたし自身はもっと気づかいを心がけなきゃいけないなあとは思っております。

マイウェイ

マイウェイといえば小学校の卒業式だかなんだかで、全員で合唱させられた。いま思うとちょっとうす気味悪い。今だったら世界に一つだけの花とか合唱するんだろうなあ。

わたしは、マイウェイにしても、世界に一つだけの花にしても、歌そのものはきらいじゃない。合唱もきらいじゃない。
でも歌ってのは歌わされて歌うもんじゃないし、ただこういう曲をみんなで合唱するのは歌の意味的にスジが違うと思う。

合唱するのをやめろとは言うつもりはないけど。
こういう矛盾を乗り越えて、子どもは大人になっていくんだ。。。
って大人になれてないわたしが言っても説得力ないか。
(そういえば小学校の卒業アルバムだか文集だかに、将来の夢を書かなきゃいけなくて、「まともな大人になりたい」って書いた。今思うといやみな子どもだが、けっこう切実な願いだった気もする。もしも逆タイムカプセルがあるならば「ごめんね」と手紙を書いて埋めたい。)