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世間は広い…

高校時代の友人で美人女医のSちゃんが、東大理三現役合格のお医者氏と結婚、という話を聞いて、はしたなくも、つい色めきたってしまった。

高校生の時、Sちゃんの家には座布団が一枚もないと言っていたのを覚えている。
そりゃあ座布団のない家もあるだろうと今なら思うが、当時のわたしには、それはすごくすごく驚くべきことだった。

金の芽が出る?

道ばたで荒川静香さんとすれちがった。まさしくクールビューティーだった。
今をときめく人からは、すれちがうだけでもいいエネルギーをもらえる気がする。
なんかいいことがありそうだなあー。

ビックリ・バー

ラジオを聴きながら仕事していて、「ビッグ・リバー」という映画の題名を「ビックリ・バー」ときき間違えた。

それでもすぐに間違いには気がついたのだが、いったいどんなバーなんだろう…と、しばらくぼーっと考えてしまった。
作業中はこういうくだらないことがすごく気になってしまうのだ。

大切なものは大切

ネットの記事で、たくさんの子どもが「お金よりも大切なものがある」と考えている、というアンケート結果を読んだ。

子どもにお金の価値がわかるわけがないと思うんだけど。クイズみたいに教えられたことをそのまま答えただけなんじゃないかな。

しかし、お金よりも大切なものがあるって、本当にそうかなあ。
たとえば、お金で愛や幸福を買うことはできないが、逆に愛や幸福をお金に換えることもできないのだから、そもそも比較すること自体に無理があると思う。

わざわざ「お金よりも大切なものがある」 と教えるということは、お金を一番に考えている人がたくさんいるという前提があるからだ。

でも、昔はそうだったかもしれないけど、今はどうだろう。
むしろ、お金の大切さをきちんと理解できないまま大人になって、痛い目にあうケースが多いんじゃないかなという気がする。

続・根本的な疑問

8日に書いた日記に、いくつか反響があったので、ちょっと驚いた。
ついひとこと意見を述べたくなってしまうテーマだったのかな。でもわたしとしては前にも書いたけれども解答がほしいわけじゃないのだ。
ただ、メールをくださった方が、それは人間には感性があるからだと言っていたのが気になった。

わたしは「感性」とかそういうもっともらしい言葉は嫌い。
そういう言葉を使っただけで、考えることをやめて、すべて理解してるような気分になりがちだと思うので。(それもまたひとつの感性なんだろうけど。)

人間は、美しいものを美しいと感じる感性をもっている。
美しさに限らず、怒り、恐怖、不安、爽快、妬み、喜び、悲しみ、いろいろだ。(美しさはいろんな感情や何かをみんな含むので、ちょっと特別な気もする)
感性は、個人差もあれば、鋭くなったり鈍くなったりもする、不安定なものだ。
その対象は自然や環境だったり、その一部である人間だったり、作品だったりする。

とりあえずここでは人間が作った作品に対する感性について考えることにすると、なんでそんなものを持っているかは、例えば自然科学で解明できるのかも知れないし、また、芸術家は人々が無意識的に感じているものを具体化する力を持つ人間なので、人々もその作品に感応できるのだという考え方もあるのかも知れない。

また、そうやって感応したものを、代償を払ってまで手に入れようとするのはなぜか。
刺激によって脳を発達させるためといっても、なんで脳は発達しなきゃいけないのか。
それが人間の業だから病だからといって、哀れんで済ませていいのか。

それに、かならずしも、感性は、より良いものに反応するというわけでもない。

なぜか、っていうよりなんかもう、ただ、すげえなあー!と思ってしまう。
そんな感性なんていうわけわからんものを抱えている人間ってなんなのだろうか。
でも、学者ではなく絵描きであるわたしの場合、考えていってもきりがないので、どこかで考えを中断して、もやもやを抱えていくことを選択するよりほかにない。それもひとつの道だと思う。

それは感性だよ、というところで考えをやめるのも、それじゃあ感性ってなんなの、って疑問を持ったところでやめるのも、その感性を持ってる人間ってなによ、って考える途中でやめるのも、結局やめてしまうのであれば、同じと言えば同じなのかもしれないけど。。。

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先日わたしが言いたかったのは、ただ、作品というものが人間にとって現実に必要とされている、という前提にたつことができれば、自分にもそれなりの役割があると自信をもって生きていける。
それができないとちょっとしんどい。ということです。

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で、感性といえば…、
わたしが学生時代に専攻していた美学は、哲学の一分野で、まず最初に習ったのは、「美学とは、何が美しいかという学問ではなく、人間が何かを美しいと感じたり感じなかったりする、感性についての学問、つまり感性学である」という定義だった。これはもちろん美に限らず、すべての感覚におきかえられる。

大学は何かを習うところではなく勝手に好きなことを研究するところなので、それ以上のことはなんだかよくわからないまま、現在に至っている。
もっと本を読めば分かることもあるだろうが、わたしは本で知るより自分で考えたい。
というか、そのまま、不思議だなあと思いつづけて、もやもやにしておきたい。

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ちなみに、わたしが大学で習ったのはそのことと、図書館の使い方と、もう一つ、「ムンクの叫びのまん中の人物は、自分で叫んでいるのではなく、空から叫び声が聞こえて、耳をふさいでイヤー、ヤメテー!といっているのだ」ということだけ。(ムンク本人がそう書いてるのだそうだ。作者が言ったからってその通りだとはかぎらないわけだが、自分で叫ぶより空から聞こえてるほうが、病はより深い。)

わたしは、たしか高校生のころに、ムンクの画集をみて貧血を起こして、新宿の紀伊国屋の店頭でぶっ倒れそうになったことがある。
そのとき見たのが「叫び」の線描版。モノクロのぐにゃぐにゃした線の嫌な絵で、その後一度も見てないけれども、印象が強くて、すごく影響を受けてるなと思う。わたしの絵も線が主体なので、今も絵を描きながら、よくあの絵を思い出している。

とんがらしの哀しみ

友人Kと電話していて、 先日の婚礼で私たちが感じた違和感は、「甘ったるいケーキ作りの材料にまぎれこんでしまったとんがらしの気持ち」であったという結論に達し、大笑いしすぎて、うっかり涙が出た。あれがもし、麻婆豆腐を作るための集まりだったら罪悪感はなかっただろう。
わたしのまわりに壁があって、 こちらからは何もみえないのに、向こうからはこちらがみえてると錯覚されているような感じだった。

今までは結婚式に出ても客に徹していられたのでこんなふうには感じなかったが、今回のようにこだわりが強くて、みんなで作り上げる一体感をめざした演出は、一体になれない人にはどうにも辛い。

昔、わたしは結婚式場でバイトしていたのだが、宗教団体の信者同士の披露宴は、親族も友人もみな信者なので会場の一体感がハンパじゃなく、異常な盛り上がりで、あの中に入れたらそりゃあ幸せだろうよ、と思ったものである。

そういえばおととしの前川さんの婚礼ライブの時も場違い感はあったのだが、あのときはまだわたしが確固たる自信を持ってなかったので、ひとりの人間としてあの場に立っていることができなかったのだ。
2年前よりマシだが今だって自信はあるようなないような。それも敗因だった。

こんなことを書くと人を傷つけるが、傷つけるのは悪いことなのだろうか。
でもわたしは、日記に書いたことで、もうだいたいスッキリしてしまった。こういう気持ちを引きずると、半年も連日ソリティアをやるはめになるのだ。

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で、もし自分が結婚式をやるならどんなのがいいかという話になり、
(1)仮面舞踏会(参加したくない人はしなくてすむ。)、仮装パーティ
(2)パレード、花電車
(3)句会(客が一人一句ずつ詠み、新郎新婦が判定して、さくさく進む。)これならできれば客として参加したい。
(4)絵合わせ(御簾の影にやんごとなきお方がいてえこひいきしてくれる。最後は源氏の君が手すさびに描いた絵が出てみんなで泣いて終わる。)
(5)ドレスコードを決める。男はギャルソン(じつはギャルソン萌え~)。女はメイド服?…それじゃあみんな従業員みたいになっちゃうなあ。

というのが出たが、これなら結婚式である必要はないか。

やるなら本格的じゃなきゃ嫌だし、やっぱり同質の人間が集まらないと難しい。
または武道館ライブみたいに主役と客に差があればシニカルな客も許されるか。
ところで、パーティと飲み会の違いって、目的と仕込みの有無でいいのかな?それとパーティのほうが知らない人と出会えそうな感じはするけど。(昨日の、グループ展のオープニングパーティはちょうどそういう場だった。…同業者としゃべるのは気を使うしそれで失敗するしけっこう面倒くさい)

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で、ヤンキースの松井選手が怪我をしたのを、友人Kが悲しんで、でももう妻の座にはつけないからいい、だけど松井の彼女は女優だからきれいなのは認めるが、面白さでは自分のほうが上だ、などと言うので、(面白さで勝負しようとする友人Kも友人Kである)松井なら光源氏のように何人も妻を世話することもできるんだから、北の方の座はあきらめるしかないとしても、なんかの拍子に彼が阪神に移籍してきたら、天神様の力を借りれば「明石の上」の座は狙えるんじゃないか、でも彼はまたヤンキースに帰っていっちゃうけどね、などと、失礼なバカ話。

わたしの役割分担

乗り換え駅のエスカレーターをのぼり切ったところで、いきなり、何人か前の女の人がぶっ倒れた。
いかにもやばそうな倒れ方だった。わたしのすぐ前の人はさっと避けたが、わたしは状況がよく飲み込めず、人ってこんなふうに倒れるんだなあ、それにしてもすごい音がしたなあ、死んだりするには若い人だなあ、などと、何秒間か、その人が白目をむいて痙攣しているのを見つめてしまった。

後ろにいた人がわたしを迷惑そうに押しのけて、倒れた人に駆けよった。
その後からも人が上ってくるのでわたしもやっと気がついてその場をよけた。わたしには何もできないし、そっとしておかなければいけないことはわかった。
でもたしかに誰かそばにいないと、後から来た人に踏まれてしまう。

周りを取り囲む人、去っていく人、「救急車を呼べ!」と叫ぶ人などを眺め、ちょっと迷ってから、駅員を呼んでみようと思って走った。
わたしの少し前を走っていたおじさんが駅員室についた時には、もう駅員たちが数名、飛び出してくるところだった。
では帰ろうと再び現場を通ると、もうエスカレーターを上ってくる人もなく、駅員が応急処置をして「通り道なので集まらないで」と大声で言っていた。

世間はわたしのついていけないスピードで、なめらかにすすんでいく。
こんなとっさの場合でも、自然発生的に役割分担がなされ、自分は必要無いと判断した人は、邪魔にならないようにその場を離れた。
冷たいから離れるのではない。心配だとか心配じゃないとかは関係がない。
その人が助かったか助からなかったかわからない。
ただわたしは感嘆していた。

人生はミステリー

今日、初対面の「小説推理」の編集さんのご実家が、わたしが学生時代に住んでいたアパートのすぐ近くの酒屋さんだったと判明。通り道だったので、時々夜中に自販機でジュースなんか買っていた。これはぜったいすれ違ってる。4年も住んでたし…。
東京は狭い。こういうことがあるから気を抜いたらいかんのだ。
近くに貨物列車の線路が走っていてよくガタガタ揺れていた、とか住んでた人じゃなければわからない話でかるく盛り上がった。

根本的な疑問

つねづねふしぎなのは、人間は、なぜ真っ当な職業で汗水たらして得たお金を使ってまで、わざわざ本や音楽や絵を手に入れようとするのかということである。
または映画や舞台やテレビを観たいと思うのかということである。
生活は、なぜそんな血にも肉にもならないもので彩られねばならないのか。なぜ、CDジャケットや本の装丁は美しく飾られねばならないのか。

売る側の理由ではなく、買う側の必要のことである。
そんな遊びか仕事か判然としないようなものを、なぜ人間は必要とするのか。世の中にはなぜこんなにもイラストがあふれているのだろう。

自己表現とかよく言うが、自己表現そのものにはお金は関係がない。
イラストは絵画と違い、印刷されてなんぼなので、事情がやや複雑ではあるが、人間があまたの絵の中からわたしの絵を選んだり選ばなかったりするのはなぜか。
絵描きは、お百姓さんやサラリーマンに間接的に養ってもらっていると言えるが、なぜ彼らは私たちを養ってくれるのだろうか。
欲望のためなのか。憧れのためなのか。見栄なのか。ひまつぶしなのか。
わたしもときどき本や音楽を買う。絵を見る。舞台やスポーツを観る。旅をする。
だからたとえ絵描きをやめてもこの疑問からは逃げられない。

子どもは遊ぶことで社会性を身につける。では、大人は?なぜ遊ぶのか。なぜそのためにお金を支払うのか。それとも大人なんてものは存在しないのだろうか。

この疑問を解きたいとは思わないが、疑問は疑問なのである。
(こんなこと書いてるとヒマなやつだと思われるだろうが、こんなことばかり考えてるからイラストレーターなんかになっちゃうんだよね。仕事の一部みたいなもんなのだ。社会公認の遊び人なのだ。だからなんで社会が公認してくれるのかって話なのだ。無関心なだけ?いや、認めてくれない人だっているけれども、そのほうが分かりやすいかも)

…うーん、正直に日記を書いてるとどんどん暗くなっていくなあ。

青春の残照、あるいは苦い思い出もまた思い出

友人の婚礼当日。それはわたしにとっては〆切を意味する。絵を仕上げることは諦めをつけることであり、〆切はそのための時間だ。
徹夜明け、5分で菖蒲湯に入り、髪洗いっぱなしのスッピンで横浜へ。
携帯も腕時計も無いので時間が分からなくて焦ったが、ギリギリセーフで式場係の人にウェルカムボードを渡した。しかし本人たちには会えず、サプライズみたいになってしまった。(そのあと時間があったのでお化粧はきっちりできた)

披露宴は、久々に会う友人も多くて、たいへん楽しかったし、いい会だった。
ほとんどの招待客が大学の演劇サークル時代の仲間だったので、寸劇やらビデオレターやら、いろいろ工夫を凝らしているようだった。

で、しみじみ思ったのは、今は真っ当すぎるくらい真っ当な職業(主婦含む)についている彼らにとってあの頃というのは、美しく楽しい思い出なのだ、ということだった。
わたしはもう演劇には関わっていないけれど、納得しないままやめたので、いまだに、思い出すと苦々しい気持ちになるし、大部分はもう忘れた。
当時作った公演チラシのイラストは、まだ迷いがある時期のものなので、あまり思い出したくはない。

***

来場者でウェルカムボードに気付いた人はあまりいなかったようだ。
席札やカードの絵も、出来合いのものと思われてしまったフシがある。宴の本筋には関係ない装飾だし、個人作業だし、仕方ないといえば仕方ない。ブライダルを意識してエッジを立てず、可愛くしたぶん印象も薄かっただろう。もっと素人っぽく描いたり、内輪受けに走ってしまえば、手作りであたたかみがある、と思ってもらえたかもしれない。

わたしも、仕事ではないと割り切ってしまえばもっと楽しめたかも知れないが、親族もいるし、二人の希望でもあり、悪ふざけせずにいつものように仕上げた。
打合せの時、イラストレーターの友人がいるのを自慢したいと言われたけど、そもそもそんなことは自慢にはならない。

この結果は、事前にだいたい予想がついていたのだが、後に残るものなので、わざと素人っぽく描いたものを部屋に飾られたら困るし、わたしにとって絵を描くことは思い出ではないので、ずいぶん悩んだ。
頼まれたことは、たしかに嬉しかったのだ。
それに過不足なくこなせたと思う。でもとてもむずかしかった。

***

世の中にはイラストが溢れているし、誰でも簡単にダウンロードして使える。イラストは日常的に消費されてゆく風景の一部になってしまっているので、有名なイラストレーターの作品でさえ、例えば雑誌などに載っていても、見る人は、普通は、その絵を誰が描いたかなんて考えもしないものなのだ。

そういう意味では、気付かれない方がプロの仕事ってことになるのかも知れないが、現に寝不足だし、あれだけ人がいて手ごたえがないのは複雑だ。
まー、あれこれダメ出しされてもイヤだっただろうけど…。
もちろん素人でも勘のいい人には痛いところを見抜かれてしまうこともあるし、聞く耳を持たないわけではないけれども、わたしは気難しいのである。

こういうのを楽しめる性格なら、もっと一般受けするものを描けるのかなあ。(明るく親切な性格のイラストレーターだってたくさんいる。多分。)どうしたらこういうことを気持ちよくやれるんだろう。こうも性格が悪く、かつ不器用だと、真っ当な人生を送ることはむずかしい。
どんな職業でも苦労はあるのだろうが、30代の所得格差は拡大するばかりだ。

それでも本日の主役たちが幸せそうだったのは救いではあった。

ラーメン

わたしは特にラーメン好きではないが、たまにラーメンを食べようとすると、「スープを捨てると海を汚すが、飲み干すと塩分摂りすぎになる」という話が頭にちらついてしまって、なんとなくうしろめたい気持ちになる。
そんなことで心を揺らしているなんて、わたしも小物だ…。

たけのこごはんLOVE

急用ができて実家に帰った。そしてたけのこづくし料理を堪能。たけのこごはん・天ぷら・味噌汁・煮もの・チンジャオロース…etc.

それにハヤシライス!
うちはハヤシライスに必ずたけのことしいたけを入れるのだ。イケルよ。

茫洋とした話

わたしは、たまに、ボーヨーとしていると言われることがあるのだが、そうだとすれば、ある日突然にとか、だんだんに、そうなったのではなく、生まれてこのかたずっとボーヨーとしつづけてるんだろう。