「光」っていう字、星みたいな形で可愛いけど、象形文字じゃなくて会意文字なんだって。ほんとかなあ。

メモ2つ

昨日見た夢。梅の垣根に囲まれたローカル線に乗って、西日本の果ての果てまで行くと、岩場の奥に海がぽっかり広がっていて、青くて透明でなまぬるい水に手をひたしたら、急に雷が鳴り大嵐がやってきたので、あわてて逃げだした。メモ

近所の垣根に星みたいにいっぱい咲いてた黄色くていい匂いの花、カロライナジャスミンというらしい。でも猛毒だそうな、、、メモメモ

美容院であたまがくらくらした話

こないだ美容院に行って髪を切ってもらってるあいだ、ちょっとウキウキ気分で、なんか非日常的な感じの雑誌でも読みたいなと思った。
近くのテーブルに載っていたのは30代ミセス向けのファッション誌だった。読みたいのとは違うけど、ふだん読むことのない雑誌なので手に取った。

そしたら、載ってる記事やアイテムは、みんなそれなりにおしゃれなんだけど、家庭や育児や生活に役に立つお得感が、さらりと、しかし必ず、プラスされている。なんか夢がないというか、豊かなようでケチくさいんだなあと思った。

あまりにも興味がわかない内容ばかりで、戸惑ってしまった。
同年代の女性の気持ちに共感できないのは、昔からずっとそうだったけどさ。。。

おしゃれでもなんでもない、淡々としたわたしの日常のほうが、じつは日常ではなく非日常なのかもしれないと思って、あたまがくらくらした。

水彩の国

こうして水彩絵の具が使えるのも水が豊富な国にいるからだなー。
もしも砂漠の国に生まれてたらいまごろモザイクとかやってたんだろうか。。。

桜のカテドラル

「花見展#3」昨日でおわりました。おいで下さった方、どうもありがとうございました。

先日、まだ五分咲きくらいのころに、井の頭公園にお花見に行ったら、うねうねと絡み合った桜の木のシルエットが夕焼け空に浮かび上がって、すごく面白かった(花はあまりよく見えなかった)ので、その印象をもとに描きました。

『オルゴォル』文庫版

『オルゴォル』の文庫版(朱川湊人さん/講談社文庫)発売です。
新聞連載の挿絵、単行本装丁オブジェ制作に続き、文庫版のカバー画を描きました。

それでこの機会に挿絵(246点)のスライドショーを公開しました。(現在は非公開です)
2010年の単行本発売のときに途中までアップしかけたのですが、見返すと手直ししたいところがたくさんありすぎて間に合わなくなり、結局タイミングを逃してそのままになっていました。
かなりの部分を修正しましたが、それでもきりがないです。

自分のヘタクソさ加減を痛感したり、でもヘタクソさがわかるということはこの数年で進歩したということでもあるのかもなと思ったり、ここは昔の描き方のほうが面白いなとか、いろいろ気づくことがありました。
でも、ヘタクソなりに、物語の気持ちの流れに寄り添うことだけはできていたのではないかと思います。

文庫のカバー画は、筆で描いて原画で納品しました。
ふだんイラストは全部Macで描いているので、勝手がちがってアワアワしました。
展示用の絵とは違って、なんか派手だし、、、いままでにこんな明るい絵を描いたことってあったかなあ?絵画とイラストレーションはやっぱり全然違うなあ、とあらためて思いました。

オルゴォル (講談社文庫)

オルゴォル (講談社文庫)

  • 作者: 朱川湊人
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2013/04/12
  • メディア: 文庫

オルゴォル

オルゴォル

  • 作者: 朱川湊人
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

星舟庭ライブ「チジキンクツ」

アートトレイスギャラリーで、赤松ネロさんのインスタレーション、「チジキンクツ」を使ってライブをしました。

「チジキンクツ」は、水と針を入れた瓶の表面にくっつけたコイルに電流を通して、磁力で針を動かして、針先がこつんと瓶にぶつかる小さな音を使ったものすごく繊細な作品です。
昨日はわたしも設営の最後の追い込みのお手伝いをしていました。
4面の広い壁いっぱいに並べられた、たくさんの瓶やらコップやらに、ひとつひとつ細い銅線をつないだり確認したり養生したり、気が遠くなるような果てしない作業。。。
間にあうのかハラハラしましたが、今日は無事に完成していました。
展示期間が2週間だけなのがもったいない、大掛かりな展示です。こういうのが大人の遊びっていうんだろうなーと思いました。

実際に楽器を使って練習できなかったのが不安でしたが、とにかくできることはやりました。
でも、ほんとうは人が集まるライブよりも、ひとりきりでぜいたくに独占したい、不思議な音の空間でした。

演奏した曲目リスト

花見展#3

グループ展『花見展#3』(日本橋・Art Lab TOKYO)に出展します。

2013年4月3日(水)~13日(土)15:00~20:00 最終日18時まで
オープニング・パーティー4月3日(水)17:00~

【参加作家】伊藤典子/菅間圭子/小島マリエ/斗星堂萬里/撫子凛/宮鼓/樋口裕子/片桐直樹/本田千昭/きりさき/横田美晴/桜井貴/大和田登/三友周太/地場賢太郎/みさ子/岩清水さやか/河野さおり/コウノユキトシ/森下泰輔

自家中毒

絵描きには毒があったほうがいい、なんて言う人がよくいるんだけど、そんなこと軽々しく言っちゃいかんよなあと思う。
わたしなんかその毒が全身にまわっちゃって、自家中毒みたいになってる。

絵の仕事をはじめたのが2002年の暮れだから、ちょうど10年たった。
10年前、わたしは毎日毎日ふらふらしながら、すごく自信がなく、不安だった。
それから絵の仕事が少しずつ増えていくごとに、絵以外の仕事は自分にはできない、だからこの道でいくしかないと覚悟を決めて、少しずつ気持ちが落ち着いていった。

そしてこのままずっと行くのだと思っていたのだけど。今のわたしの心境は、10年前とすごく似ている。

震災から2年

2010年の後半ころから、頭の中がカオスになって、日記を書くのがイヤになった。(その直前にはひとつひとつの日記が異常なくらいどんどん長くなっていた)
展示のお知らせくらいしか書かなくなり、しだいにそれすら面倒になっていった。

わたしがツイッターをはじめたのは2009年だけど、はじめのころは放置していた。
まわりの人がどんどんツイッターをやるようになったのは2010年くらいで、ツイッターのせいでブログを書くのが面倒になったという人がたくさんいた。
でもわたしの場合はツイッターもあまり使ってなかったので、関係がない。そのうちに日記の書き方も忘れて、言葉というものから遠ざかっていた。

***

2011年の震災のときは、ずっと部屋にこもりながら、ただ、ただ、たくさんのたちが、それぞれの意見をネット上で言い放つのを追いかけていた。
できるだけいろんな立場の人の意見を読もうと思った。
自分の意見を持っている人は、反対の人がひどい悪者であるかのように切り捨てる。
なんであんなに自分の意見が正しいのだと信じられるんだろう。

わたしにはみんな真剣に見えたし、どの意見にもうなずける部分がある気がしたけど、正反対すぎて、どう考えても、うまい具合に折り合うことはなさそうだった。

とにかく、あまりにもたくさんの人が、あまりにも多様な意見を持っていて、みんながそれをひたすら垂れ流しにして行くだけで、落としどころが見えなくて、次に取るべき行動がよくわからないという状況が、怖くて怖くて、たまらなかった。

わたしに言えることはなにもないと思ったので、ただずっと黙って読んでいた。

でも、言葉の情報はとても便利だけど、ネット上に限らず、テレビでも新聞でも、言葉にたよりすぎると、人間=文字のような錯覚が起きるんじゃないだろうか。

たとえば、会ったこともない政治家の人たちのことは言葉によってしか知らないから、彼らが人間であるということを忘れてしまう。

たしかに、誰が悪いのか知らないけど、変なことが次から次に起こった。
でも政治家だって人間だから間違えることもあるのに、なにか間違いを見つけると絶対に許そうとしない人たちも怖いと思った。

余震の続く中、3月末に、展示のためにロサンゼルスに行ったときは、ほっとした。
アメリカでは、もう日本の震災のニュースはほとんど流れていなかった。
節電中の日本を離れるときは後ろめたい気持ちだったけど、展示の合間に美術館を巡ったり、西海岸のビーチでサイクリングした。

日系人博物館で見た、戦争のときに強制移住させられた日系人たちの展示のキーワードは「我慢」とか「頑張る」とか、、、東北と全く同じだった。

ラスベガスで念願のシルクドソレイユを観て感動して涙を流した。
壮大な電力の無駄遣いがまぶしかった。近くの砂漠には核実験場もあった。
グランドキャニオンも見に行って。。。とにかく、楽しかった。
じっと日本でがまんしてなくてもいいんじゃないかと思った。

日本に戻ってすぐ選挙があったけど、結果はネット上の世論とは全く違っていた。世代間のギャップの大きさも感じて、さらにわけがわからなくなった。
みんなが納得できるような正しい方法なんてあるはずがないし、正しいことに価値なんかないんじゃないかとさえ思った。

アーティストの間ではチャリティ展示が流行った。東北に出かけた人も多かった。わたしは余震も怖かったし、東北に行きたいなんてとてもじゃないけど思えず、行動を起こした人たちに劣等感を持ったりもした。(チャリティ展示には参加したけど、チャリティで絵を売るのには違和感があった)わたしは絵を描くことしかできないし、それで何かの役に立てるとは思えなかった。

親しい人が、不安にかられてデマを拡散させてるのに気づくのは辛いことだった。
原発反対デモに誘われたこともあった。参加した友人たちは生き生きしていたけど、わたしには一方的に意見を主張するだけの行動のように見えて、興味が持てなかった。
デモ隊の大群衆にまぎれて名もなき一市民になるのは、自分を貶めることだと思った。

かといって、伝えるべき自分だけの言葉を持っているわけでもなかったし、いずれにしても、言葉を述べることに意味があるなんて思えなかった。
アーティストにとっては、自分の意見を主張できないというのは致命的なことだけど。

大量すぎるエネルギーというのはそれ自体が恐ろしいもので、発電方法がなんであれ、エネルギーを不自然に独占するという大罪を、わたしたちはすでに背負っている。
そう思うと、なにも言えなくなった。

翌月、用事で関西に行ったときには、あまりにのんびりした日常にあっけにとられた。
放射能さわぎで、西日本や海外に移住した人のことをよく聞いた。

わたしは、放射能よりもいろんな人の思惑の渦が怖くて、逃げ出したかった。
わたしは自由な独り者で、勝手にどこにでもいけて良かったと心から思った。

でもどこにも逃げ場なんかないんだとも思った。

***

地震の前からカオスだった頭がますますこんがらかって、ずっとモヤモヤしていた。
あれから2年。結局、気持ちを整理するには一度言葉にするしかない。
今ならもう誰かを攻撃することにはならないだろうから、うまくまとまらないけど、ただ自分のために、思い出しながら書いてみた。

森美術館の会田誠展でのツイッターを使った作品は、著作権問題で議論になったけど、実際に作品の前に立ったとき、わたしには、あのときの情景そのものように見えた。

星舟庭ライブ「Comparison – 比較的反復」

アートトレイスギャラリーのグループ展のオープニングパーティにゲストとして呼んでいただき、星舟庭ライブをしました。

ここは音がほんとによく反響して、気持ちよく演奏できる空間で、星舟庭がはじめて音を出したのもこのアートトレイスギャラリーでした。
それからもう3年目になり、レパートリーもだいぶ増え、今回がなんと11回めのライブになります。
まさかまさか、こんなに続くとは。。。

最近は、洗練されてきたね、と言っていただいたりします。ほんと?

今回は、最初、会場を真っ暗にしたところから演奏をはじめてみたり、なかなかおしゃれなことをやってみました。
なのに大鹿さんが楽器を忘れてライブの途中で取りに行ったり(笑)
わたしも緊張して段取りちょっと間違えたけど。。。

まあそれはそれで。。。

展示の作品ともマッチして、いいライブになったような気がしてます。

演奏した曲目リスト

リハ

今晩はアートトレイスギャラリーで、23日の星舟庭ライブのリハやってきた。
やっぱりあの場所だと、音がよく響いて、いつもの倍くらい素敵に聴こえるなー。

住宅展示場アートイベント

武蔵小杉の住宅展示場でのアートイベントに参加しました。

『SUUMOアートギャラリー・イベント』(SUUMO住宅展示場 武蔵小杉)
16軒のモデルハウスに各1作家ずつ16名の展示でした。
【参加作家】ハギハラトシサト/菅間圭子/岩清水さやか/樋口裕子/夢島スイ/石山浩達/戸泉恵徳/ほか(協力:Art Lab TOKYO、MEGUMI OGITA GALLERY)

新作2点と、去年の個展に出したサボテンの絵を出品しました。
わたしの絵はセキスイハイムさんのモデルハウスに飾られていました。
お部屋の下見はできなかったけど、ちゃんと雰囲気に合っていて良かった。

16軒の家にそれぞれ別の作家さんの絵が展示されていましたが、広くて、とてもじゃないけど全部はまわりきれず。
でも見た作品はどれも不思議とお部屋にマッチしてました。

しかし、住宅展示場の建物というのは、たとえばキッチュとかチープとかシュールとか、わたしにとって親しみのある言葉が入り込む隙が一切ない、お金さえあればなんでもできる気がしてしまうような最先端の夢の園で…、

そんな場所にぽつんと置かれているちっぽけなちっぽけなわたしの絵。
意外になじんでいるのが不思議だけど、住宅展示場のピカピカ空間の中にぽつんとあるわたしの絵と、わたしの絵の中にぽつんといるあの子、というのが相似形になってた。

ハイセンスすぎるほどハイセンスな展示場のいたるところにわざわざ各メーカーのゆるキャラの人形がたくさん置かれていたのは興味深く、味わいのある光景だった。
絵画というと高級なイメージを持たれるかもしれないけど、どっちかというと、あのゆるキャラの役割に近かったのかもなと思った。