プロフィール(物好きな方向け)

岩清水さやか、1975年、函館市生まれ(両親が函館出身)。千葉県育ち。
子供のころは、先生の話を聞かないし、宿題もやらないし、授業中でも歌を歌ったり粘土で何か作ったり…という困った子でした。背も高いほうだったし視力も2.0だったのに、先生に教室の一番前の席を指定されていました。それなのになぜかテストの点だけは良かったので、いろんなことを大目に見てもらっていました。
基本的に、そのまま大人になってしまった感じです。
当時のお絵描き帳をみると、やってることが今とあんまり変わってないなあと思います。

中学時代は放送部に入り、毎日田んぼに向かって発声練習ばかりしていました。大声を出すとやまびこが響いて面白かったです。
高校はなんとなく理数科に入りましたが、そこで自分は理系には向いてないとわかりました。絵を描くのは好きだったけど面倒くさかったしまさか絵描きになれるとは思っていなかったので、大学は美術系ではなく、文学部に行きました。そこで自分は知識や情報で勝負するのにも向いてないと悟りました。いちばんラクそうだった美学美術史学専攻を選択し、卒論は小村雪岱を中心に明治~戦前の日本の舞台美術と挿絵文化について書きました。
大学のミュージカルサークルに入り、歌を歌ったりチラシの絵を描いたり舞台装置のデザインをしたりしているうちに、小劇場演劇の手伝いをすることになりました。イラストレーターをたくさん輩出したセツ・モードセミナーにも通いましたが、あまりなじめないうちに主宰の長沢節先生が亡くなってしまわれたので、中退してしまいました。

大学卒業後は、小さなデザイン会社にもぐりこみ、Web制作の見習いをしながらパソコンやグラフィックソフトの使い方などを勉強しました。当時はまだみんな手探りでWebサイトを作っていた頃で、まったくの未経験でも雇ってもらえました。
忙しい業種ですが、ちょうど社内のよくわからない人事に巻き込まれて、わりとヒマでした。それで不必要に凝った画像やアイコンを作ったりしてPhotoshopをうまく使えるようになりました。
でも仕事がないのに拘束時間だけは長かったので、ちゃんとした自分の作品を作ることはできなかったし、睡眠時間が少なく、常にまわりに人がいるのもストレスで、当時はしょっちゅう風邪をひいていました。

仕事をひととおり覚えた頃、このままここにいるとつまらない人間になってしまいそうな気がして、退職することにしました。退職後の居場所を確保するため自分のホームページを作りましたが、載せるコンテンツがなにもなかったので、ためしに何枚か絵を描いてみました。そんなときにたまたま本屋で玄光社のイラストレーション誌を手に取ると、その翌日がザ・チョイスの応募〆切日だと書いてありました。退職前に有給を消化したかったので、半休をとり、ホームページ用の絵を持っていったらラッキーなことに入選をいただきました(2002年、村上隆さんの審査)。
つまりわたしは絵の実技をきちんと習ったことがなく、ほぼ自己流です。このころからイラストはPhotoshopで描いていました。

会社をやめた時点でまだまとまった数の絵を描いたことがなく、手持ちの作品がほとんどありませんでしたが、失業保険をもらいながら絵を描きためてどうにか作品ファイルをつくりました。お手伝いしていた劇団の主宰者で女優・作家の前川麻子さんが出版社を紹介してくださり、2002年末頃から少しずつイラストレーションの仕事を始めました。
そういう経緯なので、はじめはイラストとは印刷・出版するために描くものであるという認識でした。イラストレーターの知り合いができてグループ展に参加させてもらえるようになって、展示をして作品を見てもらったりいろんな人と出会ったりする面白さにやっと気がつきました。

2006年、イラストレーション系ギャラリーの老舗、表参道のピンポイント・ギャラリーで初個展をさせていただきました。Photoshop作品は展示向きではないので、この個展の作品はすべてアクリルガッシュのペインティングで制作しました。絵の具で描くのはこのときがほぼ初めてでした。このころは、絵を印刷するのはいいけれど原画を売るということには抵抗があり、作品への思い入れが強すぎて手放すのがイヤで、値段はつけていませんでした。

2007年頃から、グループ展やイベントで発泡スチロールの彫刻作品の発表も始めました。最初に作ったのはわたしと同じ身長(160cm)の人形でした。これが好評をいただき、何体か作っていくうちに、店舗の装飾など、活動の幅が広がり、またファインアート系の知り合いができてきました。
イラストレーターの大先輩・大鹿智子さんと、オルガン奏者の原田靖子さんと3人で結成したバンド「星舟庭」では、アートトレイスギャラリーやブランクラスなどでライブをしていました。人前でなにかやるのは学生のとき以来でしたが、美術と違い、生まれたそばから消えて行ってしまう「音」というものの世界に触れるのは新鮮な体験でした。

東日本大震災の前後に、ロサンゼルスで行われたいくつかのグループ展に出展しました。そのなかのひとつだった震災チャリティ展で、イギリス在住の日本人の方が絵を買ってくださいました。これが最初に売れた作品でした。震災で倒れた本棚の下敷きになって壊れてしまった作品がいくつかあったこともあって、考えが変わり、自分の手元に全部の絵を保管するより、できるだけ世界中に分散したほうが天災などのリスクを減らせると思い、積極的に作品を販売したいという気持ちになりました。
2011年暮れ、渋谷の大盛堂書店イベントスペースで個展をさせていだだきました。イラスト仕事をまとめたパネル展示と、絵画と彫刻を組み合わせたインスタレーションの制作をしました。これをきっかけに2012年の夏、現代美術ギャラリーのアートラボ・トーキョーで初個展をすることになり、アート界の片隅に潜り込むことになりました。

パソコンで描いた絵と、絵の具で描いた絵とでは、画材の特性によってできる表現は変わりますが、自分の気持ちではそれほど違いはありません。
ただ、イラストの仕事ではパソコンの絵を求められることが多く、現代美術の展示では絵の具の絵のほうを評価していただいたので、自然と棲み分けのようなものができました。イラストの仕事では小説などの文章に絵をつけることで自分の引き出しを増やしてもらい、現代美術の展示ではより自分の好きなものを自由に描く機会を与えていただいていると思っています。

イラストのお仕事では新聞小説や児童書の挿絵を短期間にたくさん描くことで、「すごくヘタ」から「ヘタ」くらいまではレベルアップできたかなと思っています。怖い物語の挿絵が多かったのは、わたしのパースが狂った変てこな絵が、読者の恐怖を煽る効果を持っていたからだろうと思っています。

イラストの展示としては、2012年に21名のイラストレーターが参加した大規模なグループ展「トルネード!」を大鹿さん・吉田稔美さんと共同でキュレーションしました。
2014年春に神宮前ギャラリーで、同年冬に吉祥寺のギャラリーボンブラでイラストの個展をしました。おしゃれな人が集まる街での展示だったので、気軽に手に取りやすい、手作りのおもちゃやグッズも制作しました。正直いってそれまであまりグッズというものに興味がなかったのですが、喜んでもらえるとやはりうれしくて、これをきっかけに2016年にオリジナルグッズを扱うネットショップをはじめました。

2016年春、アートラボ・トーキョーで2度目の個展を行い、秋には韓国・ソウルの現代美術ギャラリー、ZEINXENOで個展をしました。また韓国の巨大アートフェア(KIAFなど)にも出展させていただくことができました。
発表できる場が広がっていくことで、新しい人と出会えて、それが一番嬉しいです。

これまでほぼ自分のやりたいことばかりやってきて、社会の役に立とうとか考えたことが全くなかったのですが、2016年春の個展の準備中、毎日部屋にひきこもって必死こいて絵を描いていたときに、ふと「ああ、わたしも誰かのためになることをしてみたい!」と思いました。
こんなことを思うなんて自分でも意外でびっくりしましたが、これからは少しずつ意識的に社会とかかわりを持って行こうと思いました。
今までは自信がなくて「教える」という繋がり方を避けてきましたが、手始めに母校で特別授業の講師をしたり、おもちゃ作りのワークショップをしたりしながら、方法を探っているところです。