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まだ夏

日曜日に、久しぶりに両親が東京に遊びにでて来ることができた。
母は最近テレビで歌川広重の絵を見て浮世絵に興味を持ったのだそうで、原宿にある、浮世絵専門の太田記念美術館に行くというので付き合った。
花火の風景や、団扇絵など、夏らしい風物の絵を集めた展示で、風景画は広重の絵が多かった。さすがにすてきで、見入った。
小さな美術館だけど、両親も楽しそうにゆっくりと眺めていた。
テーマのせいか、美人画は国貞とか英泉とか少々お行儀の悪い女性を描いたのが多くて、あまり母のお気には召さなかったみたいだけど(わたしは親しみがわいて好きだけど)。
学生の頃読んで面白かった、高橋克彦さんの「浮世絵ミステリーゾーン」という本が最近再刊されていたので、入門編にちょうどいいなと思って母にあげた。

浮世絵ミステリーゾーン (講談社+α文庫)

浮世絵ミステリーゾーン (講談社+α文庫)

  • 作者: 高橋克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/20
  • メディア: 文庫

それから妹と合流して新宿のタカシマヤの14階でお昼をたべたら、広い窓からスカイツリーと東京タワーが両方見えた。だいたい同じくらいの高さに見えた。
どのくらい大きくなるのかなーと言ったら、両親が、スカイツリーは634m、東京タワーは333mだと即答したのでびっくりした。それって常識なの?

いままた怖い絵をたくさん描いてます。まだ下描きだけど、いいのができそう。
朝ドラの「ゲゲゲの女房」の影響なのか、この夏は、本屋さんに行くと、妖怪など怖い絵の本のフェアをよく見かけた。江戸時代の読本の挿絵とか。
見るとたしかに怖いんだけど、けっこうずばりと怖いものそのものを描いていて、好奇心丸出しで細密に描写されているので、かえってちょっと笑っちゃう感じがあって、あんまりわたしの絵の参考にはならないなあと思った。(だいたいあんな細かい絵は描けないし、怖いの苦手だからマニアックにもなれないし)
江戸時代には今よりもわからないことが多かっただろうし、夜に行灯の光で眺めたら、同じ絵でも、きっとずっと怖さを感じただろうなと思う。
ただ、葛飾北斎の百物語の絵は今みても本当に怖い。意外にシンプルなのに。
でも参考にしようにも、どうしようもない。構図や細かい部分を真似しても仕方ないので、こんな怖い絵が存在するのだ、ってことだけ心に刻んでおくしかない。

このごろ、肉じゃがのじゃがをかぼちゃに変えて作るのがお気に入り。甘いし、皮むきしなくていいからラクちんだし、人参なしでもカロチン摂れるし。
まだ暑いので味濃いめでちょうどいいし。。。

絵の中にしか存在しない時間

わたしは小説の挿絵からイラスト描きの仕事をはじめたので、絵とは、連続する時間(ストーリー)の中の一瞬を切り取るものだと思っていた。

瞬間の積み重ねが時間になっていくという、微分積分的なイメージ。
お話の要点をまとめた説明的な絵や、重要なアイテムを描くこともあるけど、わたしがいちばん描きたいのは(お話のネタバレにならない範囲で)、人物が何かに気づいて、驚いたり、ときめいたりして、世界がぱっと開ける瞬間。
けして、ただ単に美しかったり見栄えがする場面というのではない。

わたしは怖いお話の挿絵を描くことが多いのだが、なるべく、怖いものそのものではなくて、怖さに気づいた瞬間の人物の表情を描く。
何に気づいたか、何が怖いかは、読者の想像にまかせたほうが、より怖い絵になる。
挿絵を描くときには、小説の力と、受け取り手の想像力を利用させてもらっている。
すごく面白い作業だと思う。

でも同時に絵というのは、前後の時間とはまったく関係なく切り離されたもので、忽然と現れた「瞬間」は、それ自体が永遠の時間でもある、という見方もできる。

たとえば階段の真ん中に立っている人物の絵を見たら、その前後の連続する時間に、上がるか降りるかする様子を反射的に想像してしまうのではないだろうか。
でもこれは一枚の絵であって、写真でもアニメーションでもないから、前後の時間ははじめから存在しないし、人物が移動することは絶対にない。(その瞬間が出現する前は、ただの真っ白な空間と画材だったともいえる)

その人物は、なんの理由も脈絡もなく突然その階段の真ん中に出現したのだが、存在してしまったものはないものにはできないので、そのまま受け入れるしかない。
絵は物体だから壊れる可能性もあって、厳密には永遠ではないかもしれないけど、少なくともその人物がその階段から離れることはありえない。

こんな時間の感覚は現実には存在しないけれど、絵だからこそ存在し得る。
わたしは実物を見たりせずに全て想像で描くから、よけいそう思うのかもしれない。
そこにストーリーは入り込む余地がない。
ストーリーの入る余地がなければないほど、絵としては完璧なような気もする。

どんな抽象画であっても、絵からストーリーを読みたがる人は多いだろうと思う。そうでなければ、技術的なこととか歴史とかを評価したりする見方になるのかな。
いろんな見方をしていいのだけど、想像力をいったんとめて、できるだけ頭を使わずに、絵の中にしか存在しない永遠を味わうのも、絵を見るひとつの楽しみ方だと思う。

そのためにはもとは画材だったことを想像させない完成した世界を見せる必要がある。
そういう絵を見せられるようでありたい。
(ライブペインティングとかで描く途中を見せるのもまた別の面白さがあるけどね)

『オルゴォル』オブジェと挿絵

去年新聞で挿絵を連載させていただいた、朱川湊人さんの小説『オルゴォル』の、単行本がこの秋(発売日は未定)に講談社さんから出版されます。

それで、その装幀に、主人公の等身大オブジェの写真を使うことになって、5月ころに制作して、撮影がどうこうと大騒ぎしていたのはそれなんですが、まだ秘密なのかなと思ってたら、編集者さんにブログで紹介していいと言われました。

それで、ホームページに、オブジェの制作過程の写真をスライドショーにしたものと、新聞連載時の挿絵のスライドショーをアップしてみました。

挿絵は全部で246回ぶんもあって、最初のころと最後では絵がけっこう違ってるし、連載中は〆切ギリギリで慌てて描いているので、やっぱり手直しする必要があって、一気には公開できないので、今回は第1回から第30回までだけ。
続きはまた追々アップしていきたいと思います。まあ単行本が出るころまでには。
小説読まないで絵だけ見てもねー、って感じもしますが、、、これはこれでけっこう面白いんじゃないかなあ。良かったら見てみてください。

撮影のため京都に行っていた『オルゴォル』の主人公・ハヤトの等身大オブジェは、今月の始めころに自宅に戻ってきたんだけど、京都から講談社への輸送中に事故にあい、なんと、足首のところがポッキリ折れて、手の指のところも潰れた状態になっていた。
まるで古代遺跡から発掘された、ミロのヴィーナスか、サモトラケのニケみたい。
今回、二足で直立する形に作るのが難しくて苦労したところで、足首は糊で貼りあわせたので弱いっちゃ弱かったけど、表面は樹脂でコーティングしてた。
糊付け面が剥がれただけじゃなくてスチロールの組織ごと割れてしまっていたし、使用した発泡スチロールは、ソファの材料に使われるほどのしっかりしたもので、ちょっとやそっとの力がかかっただけではあんな潰れ方をするわけがないので驚いた。
それは、一度作ったものは、いつか壊れる可能性はあるのだけれど。。。

作ってからひと月以上たち、もう過去のものという気分でいたので、電話で話を聞いたときも、実物を見たときも、わたしはわりと冷静で、怒るとか悲しむとかいった感情はおこらなかった。ただやりきれず、空しかった。
でも編集者さんがすごく怒ってくれて、「講談社の戦う部署」の方たちが、わたしの代わりに運送屋と戦ってくれるんだそうな。
講談社の戦いのプロ。。。味方にするにはたいへん心強い。
法律とかわからないのでありがたいけど、同時に個人事業主の無力さも感じた。

オブジェ自体は、足がないので床に転がして置いておくしかなくて、すごくジャマ。なのでなるべく早めに修理しようと思ってます。ちゃんと直立するといいんだけど。
秋に単行本が発売されたら、朱川さんのサイン会とかで、このオブジェも、もしかしたらみなさまとお会いする機会があるかもしれないので、そのときはどうぞよろしくお願いします。

30代からのお金のトリセツ

「30代からのお金のトリセツ」(伊達直太さん著/泰文堂刊)という実用書で、山のようにカットを描かせていただいたのだけど、その見本がきょう届きました。

カット描きって地道な仕事で、じつはかなり苦手意識があった。思い入れしすぎてもいけないし、気を抜きすぎてもいけないし。
こういう仕事が苦手なのは社会的に役立たずだからだ、、、なんて思ってた。
でも今回は、過不足なく手堅くこなせた、と自分で思えたのがとてもうれしい。
これでちゃらんぽらんが治るわけでもないから、やっぱり向いてないとは思うけど、ひとつ達成感を得られたので、これが次の支えになると思う。

不景気を嘆いてもしかたないから自分でできる対策を考えよう、という本で、地に足がついているのと同時に、とても前向きな内容だと思います。ツタヤのレジ横とかに並ぶそうですので、もし見かけたら手に取ってみてください。

30代からのお金のトリセツ (Earth star books)

  • 作者: 伊達直太
  • 出版社/メーカー: 泰文堂
  • 発売日: 2010/06/24
  • メディア: 単行本

裏技

【衣服に染みついたイオウの匂いを取る裏技】
洗濯するときに(うっかり)グリーンガムを一緒に入れる。
。。。ガムが飛び散るので後始末が大変ですが、いい匂いにはなります。

怪ダレ4「恐怖の教室」4刷!4並び(笑)
ぎゃ〜〜〜〜

ドナドナ

早朝、発泡スチロールのオブジェをむりやり仕上げた。
具体的に何を作ったかというと、秋頃に発売になる、ある小説の登場人物の等身大人形。

いままでのオブジェは完全にわたしの世界だったので、足は彫る必要がなかったんだけど、今回は2足で直立させてうまくバランスをとらなければならなかった。
それでいて単なる模型になってしまってはいけないし、なかなか難しい挑戦だった。

これをカメラマンさんに撮影していただいた写真が装幀に使われるとのこと。
まだくわしいことは書けませんが、その撮影が、本日、京都で行われた模様で。
京都は小説の中には1ミリもでてこないんですが、デザイナーさんが京都の方だそうで。むーー、、、東京で撮影だったら見学に行けたのにいい。ていうか京都でも行くつもりで、自腹切ってでも行きたいですってお願いしたんだけど。

それでもダメだと言われたらあきらめるしかないじゃんね。
なんでよー。なにも邪魔なんかしないのにいいい!
まあ結局二徹してたから京都までいくのは体力的にきつかっただろうけどさ。でも新幹線でだって眠れるじゃんね(←まだ言ってる)

撮影に間に合わせるため、編集者さんが朝6時に自宅まであの子を引き取りにやってきた。わたしはギリギリまで描いていて、後ろから同時にドライヤーで乾かしてもらい(汗)なんとかあきらめをつけて(つまり仕上げて)、プチプチで簀巻きにして、、、
そしてあの子はタクシーに乗せられて、ドナドナされて行きました。

そのまま新幹線で京都まで行って、10時から撮影に入るということで。
あの子が著者さんに似てると言われたのは意外だった。…パパ似? 複雑だわ(笑)。
まあ、あの方に似てるのならば、相当見た目のインパクトがあるってことだ。よし。
でもその後ひとり取り残されたわたしは寂しくて悲しくて悔しくて呆然としてしまった。

今回のオブジェは、最初の〆切の日から4日くらい待ってもらって、じっくり作った。彫りや着彩だけじゃなく、地塗りとかヤスリがけなどもけっこう丁寧にやった。
完璧ということはありえないので、時間があればまだいくらでも描き続けられるんだけど、それでもやっぱり制作に時間をかけると、クオリティが上がるものなんだなあと思った。

意味を伝えるだけで良いのだったら、もっと早い段階のものでも完成してたと言える。至近距離からの撮影ではなく、オブジェが風景に溶け込んだ写真を使うようだから、本当は、お仕事としてはここまでクオリティにこだわる必要はなかった気もする。

でもあの子が運び出されて行ったあとで、部屋に戻って鍾乳洞のオブジェをみたら、すごく雑で荒けずりでいいかげんで適当で、なんだかゴミみたいに見えてしまった。
あれは一個一個の形より全体を見せるのが目的ではあったけど、、、意味と雰囲気を伝えるだけのものになってしまっていたなあ、と今更ながら反省した。

それから睡眠をとって、夜中近くに息をふきかえし、食糧の買い出しに出た。
毎日徹夜してたから外が暗いのが新鮮で、ああ夜って暗いんだと妙に感動してしまった。

2次元と3次元

わたしの絵はデッサンとかめちゃくちゃだということはよくわかってるけど、2次元で紙に描いていると、それはそういうものとして成立してしまうところがある。

オブジェを作る時にいつも考えるのは、その絵を3次元におこすとどうなるかということ。
しかもわたしの絵は線描で、その線はリアルには存在しないものだから、3次元になった物体に線を描き込むと、そのヘンテコさがすごく際立って、超スリリング。
輪郭の黒い線を立体化したら、本当は、表面は全部真っ黒に塗りつぶさなければいけない。さすがにそれやっちゃうとアートになっちゃうからしないけど。

他の部分の線も不自然なんだけど、描かないと不思議ともの足りなかったりするので、不自然になりすぎないようなギリギリの線をみつけて描いていくという変な作業。
線描ってほんとに不思議で、なんで現実には存在しない「線」で描いたものを、人間は情報として認識できるのか。子どものときから線の絵を見慣れてるおかげなのか。古代の洞窟壁画も線描ということは、人間は最初から線で世界を認識しているということ?

あと陰影。本物の立体なんだから陰影をつける必要はないのに、あえてつけるのが面白い。
人間そっくりなものを作りたいわけじゃないけど、人間として認識できる必要はあり、もともと矛盾したものを、上から下から斜めから見ても矛盾を感じさせないようにして、なによりも可愛らしく作らなければならないんだから、意外に気をつかっている。

ちなみに、2次元の絵を描く前に最初にわたしの頭の中にあるイメージは4次元だと思う。
3次元のものを2次元に落とすときはデッサンが必要になるのかもしれないけど、4次元から2次元にするのならなんでもありなんじゃないかなあ。
で、4次元の自由でふわふわしたイメージを2次元に落とし込んでいくときに、2次元だからこそできる形式や方法を使うことで膨らむ部分もあるし、新しい発見もある。

そうしてできた絵は一つの完成形だけど、逆に拾いきれずに落としてしまうイメージもある。
それが惜しくて、絵には描かないで取っておきたいイメージもある。
でもわたしの頭の中のイメージはわたしにしか見えないから、それを誰かに見せたければ、なんとかいちばんしっくりくる方法を見つけて、頭の中から取り出さないといけないのだ。

ところで、いわゆる2次元キャラ萌えがどうにも気持ち悪い感じがするのは、元の頭のなかのイメージも2次元だからなんじゃないかという仮説をたててみた。
わたしは萌えがないので検証できないんだけど、どうなんでしょうかね。

やばいやばいやばい!

〆切ってヤツは、重なる時には重なるもので。。。
発泡スチロールの彫刻と並行して、先週からずっと実用書のためのカットを描いていて、全部で69点、今朝納品した。こういうお仕事はわりと気楽なんだけど、数が多いと大変。

ナイフを振り回して削りまくって腕がしびれてくると、PCに向かうことの繰り返し。
スチロールの削りくずは粒子が粗いので同じ仕事部屋でPC使ってても大丈夫…だよね?

というか彫刻のほうも今日くらいまでにといわれていたはずなのだが。でも〆切延ばしてもらっても、今週は雑誌の挿絵の〆切もいくつかあってかなり厳しい。

体力的にもだいぶしんどくなってきた。。。

とはいえ仕事が忙しいときは仕事のこと以外考えないからその点では楽かも。

挿絵本の世界展

きょうは町田で大学の同期とランチの約束をしてたので、ちょっと早めに出かけて、前から一度行ってみたいと思っていた町田市立国際版画美術館の、「挿絵本の世界~きれい、カワイイ、怖い 本と版画のステキな関係」展へ。

まずヨーロッパの印刷の歴史のおさらい。木版・手彩色の聖書の挿絵からはじまり、活版印刷の活字と挿絵の角度がおもいきりズレたものが展示されてたりして、マニアック。「神曲」の挿絵の中に登場人物のイニシャルが書きこまれてて、新しい!と思った。

この展覧会のメインは19世紀ヨーロッパの華やかな挿絵群。これを、きれい、カワイイ、怖いの3つに分類しましょう、ってのが面白い。

「きれい」はバーン=ジョーンズ、ミュシャ、ルペール、バルビエなど。
ミュシャは好きじゃないけどやっぱりすごい。バルビエは最高よね(うっとり)。
「ガゼット・デュ・ボン・トン」の原書は初めて見た。こんなに分厚かったんだ。
初期の資生堂デザインの元ネタ満載のファッション誌(でも今の感覚だと超豪華本)。ポショワールといって、ステンシルみたいな手作業で着彩されてたそうだ。ははあ~。
印刷といっても版画みたいなもので、ごく少部数だし、そりゃ上流階級志向にもなるわ。

「カワイイ」はウォルター・クレイン、ケイト・グリーナウェイなど。
グリーナウェイってべつにそんなに絵は上手くないと思うんだけど、たしかにカワイイ。でもこのカワイイは、昨今日本でいわれてるカワイイとは微妙に違うカワイイだと思う。

「怖い」はウィリアム・ブレイク、ビアズリー、マネ、ルドンなど、すごいメンツ。
そう「怖い」は一大ジャンルなのだ!もちろんみんなモノクロ。怖いはモノクロ。
怖いがいちばん見るものの心にダイナミックにゆさぶりをかけてくるというか、扇情的というか、もうちょっとで下品の側にころびそうな危うさを感じさせた。
ここまでだけでもすごい数の絵で、かなり見ごたえがあったけど、テニエルとかラッカムとかの絵がなかったのがちょっと意外なような気はした。

最後のコーナーは、20世紀のアーティストによる挿絵。シャガール、ドニ、ピカソ、デュフィ、カンディンスキーなど。
シャガールは彼の世界をそのまま小さくした感じ。デュフィ素敵。ドニも可愛くて大好き。
でもいちばん気に入ったのはオスカー・ココシュカの力強い線描の挿絵だった。

ヨーロッパの挿絵に描かれている人物って、風景と同じ強さというか、顔の描き方が非常にそっけなくて、したがってキャラクター性がほとんどなくて、それが全体の調和と、落ちついた上品な雰囲気につながっている。同じ版画でも、日本の鈴木春信とか歌麿とかはかなりキャラクターが強い。

浮世絵は人物にフォーカスするあまり、全体の構成はいいかげんだったり、背景を雲母刷りでごまかしたり適当なのも多い。でもそのぶん粋で、勢いがある。

見る前は、きれい、カワイイ、怖いに「カッコイイ」を入れてもいいのでは?と思ってた。
でも、カッコイイという価値観は、あちらの挿絵には、もしかすると元々ないのかなあ。

「おしゃれ」なカッコよさはきれいに分類できるだろうし。日本の小説挿絵だと、剣豪ものとか、カッコよくヒロイックに突き抜けたものも多いけど、ヨーロッパのものって、上流志向なせいか騎士道ものでもカッコイイよりきれい寄りだし、今回はなかったけど、もっと大衆的なミステリーとかの挿絵でも上品で妙に大人っぽい。
でもラファエル前派なんかはけっこう庶民的で下品だし、カッコイイも探せばあるのかも。さらにもうひとつ分類を加えるなら「エロい」だろうけど、、、。

図書館情報学専攻だった友人Kによれば「本」という形態はそれ自体すごい大発明だった。
「本」は便利だったからこそこれだけ利用され、広まった。
いま電子書籍の話題でもちきりだけども、基本的に世間は便利な方向に流れて行くと思う。
わたしの絵は一応CGだから、電子書籍で見られることに対する抵抗はなくて、なるようになれという感じだけど、紙の本って、やっぱり魅力的だよねえ。。。

もったいない

いいイメージを思いついてたのに、なんかもったいなくて紙に描き写す気持ちになれず、結局しめきり延ばしてもらっちゃった。
イメージ劣化させたくなくて。。。でも描かないと仕事が!

「温かな手」文庫版

ミステリーズ!連載中の挿絵、単行本の装幀イラストも描かせていただいてた、石持浅海さんの連作ミステリ「温かな手」の、文庫版の見本が届きました。

単行本よりシンプルなイラストです。
やっぱりミステリは文庫でね、こうポケットとかに入れて持ち歩いて、空き時間におもむろに取り出して読むというのが、いかにもサマになるなあと。

温かな手 (創元推理文庫)

    • 作者: 石持浅海
    • 出版社/メーカー: 東京創元社
    • 発売日: 2010/05/11
  • メディア: 文庫

絵を描くのってしんどい。。。

このところ、2年前に描いた絵、12枚ほどの描き直し作業をしている。
最初に描いたときも、正直言って完成してるとは思えなかったのだが、あれ以上どうしていいかわからなくて、そのままになっていた。
いまみるとすごく雑で、これまだ下塗りじゃん、って感じ。
新しい絵を描くのもいいけど、描きたい世界そのものは2年前と変わってないし、骨格はそのまま残していいと思う。それでいかに完成度をあげるか。

キャンバスに描いた絵だから、上から何度重ねても大丈夫なのは良かった。
紙に描くほうが気軽だし、絵の具のなじみ具合とかも好みなのだけど、あんまりいじると汚くなってしまう。キャンバスに描く利点はこんなとこにあったのか。

展示のためとか、締め切りがあって描くわけじゃないので、(わたしは締め切りがないと描かないと思っていたけど!)手順も決めずに、ぱっと思いついた色を納得がいくまで何度も何度も重ねていく。

わたしが絵の具で描いたのは4年前の個展のときがほぼ初めてで、あのときはヘタなりに試行錯誤して、一枚一枚違う絵の具の使い方をしようとしてた。

その翌年くらいに、ある人に、人物を大きく描いてみたらとアドバイスされた。それも面白いし、やってみるだけやってみようと思った。
でも、あの目がでっかい人物は、大きく描くとすごくバランスがへんになるのだ。
絵自体はシンプルだから、持たせなきゃいけない空間も大きくなる。それは太い筆で描いたら解決するかなと思って試したり、たぶんアドバイスしてくれた人は背景は少なくするべきと思っていたのだろうけど、じつはわたしが描きたいのは人物より背景なので、人物を大きくするにつれて、どんどん背景も大きくなっていった。
結果的に絵自体が大きくなっていって、こないだはあんな壁画まで描いてしまった。

でもそうしてるうちに、塗り方や色に注意を払うことがしだいにおろそかになり、そこに頭を使わなくなって、手順が決まってきて、雑になってしまった。
ただでさえ、絵が大きいと小さい絵では気にならないアラが目についてしまうのに。
こないだ壁画をやったときに、そのことを痛感したのだった。
壁画じゃなくても、5枚組とか7枚組とかの連作を描いたときも、全体の世界観は悪くなかったけど、一枚一枚の絵を見せることができてなかった。
よくお客様に世界観があるね、と言ってもらってたのは、褒めてもらってたんじゃなくて、それ以外はダメだねって意味だったのだなあ。。。

絵の具をざっと薄塗りしただけでセンスよく仕上げられる人もいる。そういうの粋でカッコいいな~と思うけど、わたしのやりかたは違う。
下塗りの段階で終わりにしてもいいかも?と思うことも、塗り重ねる前の写真と比べたら、前のほうが良かったんじゃない?ってこともある。
イラストの仕事では、不完全な状態のほうが良さを出せることだってある。
でもしつこく何度も何度も塗り重ねないと、納得がいかないのだからしょうがない。塗り重ねた結果のほうが良かったと思えるような描き方をさぐっていかないと。

そうやって描いてると先が見えないのでけっこうしんどい。絵を描くのって大変。
使っている絵の具の特性もあって、わたしが絵の具で描いた絵は色合いが淡くて、妙におとなしくて、PCで描いた絵のような弾力がもうひとつ欠けている気がする。
PCで描いた絵のほうが仕事にもなってるし、やっぱり印象も強いのだと思う。

そこを埋めていくことはできるだろうか?
うーん、、、単純に画材を変えたほうがいいのかな。。。

恐怖の初顔合わせw

夏だか秋だかに、また、あかね書房さんから、「怪異伝説ダレカラキイタ?」シリーズの続巻が出ることになり、きょうは、作家の加藤一さん、デザイナー郷坪浩子さん、編集Eさんと飲みに。

シリーズが始まって3年目にして初顔合わせ。
こういうときは、どうしたって作家さんが話の中心になるので、作家さんって大変そうだな~っていつも思うんだけど、つぎつぎに繰り出される怖い話やら不思議な話やら、いろいろと面白すぎて、わくわくしながら聞いているうちにあっというまに時間がたった。
シュールすぎてここにはうまく書き記せないですが。。。

あーなるほどそれでああいう本になるんだな~と、ちょっと腑に落ちたかも。
怖いことが本当に起こったかどうかじゃなくて、その体験をした本人が怖いと感じたかどうかが大事、というのはすごくよくわかるなあと思った。

あと、仲間内にひとりくらいはかならずいる「霊感のある人」というのは、だいたいほんとに霊感があるらしい。
で、やばい場所に行った時に危険な目にあうのも霊感がある人だけらしい。
それならわたしは安心だなーと思ったら、いくつになっても、とつぜん霊感が芽生えることはあるらしい。

怖いんですけど!!!

偕成社さんのとあわせて、今度で怪談本の挿絵は5冊目!
先日「怪ダレ」1冊目の絵を見直したら、ヘタクソなんだけど怖かった。
でもだんだん慣れてきてへんに上手くなってきちゃった感じがあるので、これを機に初心に返って、次はなんかこう内臓にくるような絵にしたいです。

怪異伝説ダレカラキイタ?〈4〉恐怖の教室 (怪異伝説ダレカラキイタ? 4)

  • 作者: 加藤一,岩清水さやか
  • 出版社/メーカー: あかね書房
  • 発売日: 2009/03
  • メディア: 単行本

ある一日

徹夜して朝までにどうにか挿絵を仕上げ、ふと、わたしの前世って小人さんだったんじゃなかろうか、と思う。

まあいつもこんな調子なんだけど。
そのあと頭が冴えて眠れなかったので、いろいろ雑用してるうちに、眠気がきたのでパタッと倒れて、1時間くらい眠ったところでハッと目が覚めた。
あれ?そういえば今週打ち合わせの予定があったな、、、明日だった気がするけどいちおう確認しておこう、それにしても今日っていったい何日なんだっけ?なんて思って手帳を見たら、待ち合わせの時間は今日の2時間後だった。

焦った。。。でも気がついてよかった。

とくに今回は、ちょっと面白い打ち合わせだったし。
イラストのお仕事じゃないんだもん。またオブジェ作りますよ~!おほほ。
スチロールの人形作りは、趣味のようなものだと思っていたし、いったんやめようと考えてたんだけど、それはもう置き場所がないからなので。。。
本格的にカメラマンさんに撮影してもらえるそうだし、どんなふうになるのか、すごく楽しみ!

ノーモア虫歯

朝から歯のインプラント手術(金属を骨に埋め込む手術)。
母が「付き添いはいらないの?」とか、かなり心配してたので、なんだかわたしまで不安になってしまったじゃないか(ありがたいけど)。

きょうは先生がいかにも手術っぽい服を着ていたのでさらにびびった。
でも、レントゲンや血圧測定などをのぞけば、実質1時間半くらいで終わった。
口のところ以外は全部布で覆われてて、なにが行われてるかわからなかったし、痛みもほとんど感じなかったので、途中で眠りそうになってしまった。

終わった後は出血もすぐに止まったし、麻酔が切れてしまってからも、痛いには痛いが、痛み止めなしでも我慢できないほどではない。ふつうにご飯も食べられるし、入浴や激しい運動も明日からはOKだそうだ。ただ、じっとして動けなかったせいか、めずらしく肩が凝った。

これでほっとひと安心。でもこんなのもうやだ。ノーモア虫歯。

手術の後どうなるかわからなかったので、昨日までに仕事は片付けて、きょうの午後から来週前半くらいまでとくに予定を入れてなかったら、突然、宝塚月組「HAMLET!!」のチケットを譲ってもらえることになった。

家で痛みに耐えるのと劇場で耐えるのなら劇場のほうがましということで、いそいそ出かけていったのだった(結局痛くなかったけど)。
なんかX JAPANみたいに髪が逆立った人がたくさんでてきたりして、「To be or not to be~?」って何度も歌っちゃうんだよ。さすが宝塚。

その間にちょっと時間があったので、弥生美術館で開催中の、明治~昭和の挿絵画家・鰭崎英朋展も見に行った。
弥生美術館(&竹久夢二美術館)は初めて。なんとも趣味的な美術館ですなあ。

鰭崎英朋は、挿絵画家だったころの鏑木清方と並び称された人。英朋は色っぽくて清方は清潔、みたいな説明が書いてあったけど、そうかな。わたしは鏑木清方はなんか女々しくて品がない気がして好きじゃないのだが。
英朋は、乙女チックな感じが一切ないところが好き。
小村雪岱の絵が好きなのも、叙情的だけど大人の世界だから。竹久夢二もなんのかんのいって少女趣味とは違う、大人の絵。天才。

英朋と清方の合作の絵がいくつか展示されていた。合作ってのはすごい。なんでそんなことできるんだろう。画家同士がこんなに近いなんて信じられん。共通の日本画の文法orテクニックを持ってるからできることなのだろうけど。
その後清方は日本画の大家になり、英朋は最後まで挿絵画家として生きた、というのもちょっといろいろ考えさせられますなあ。

あと英朋のスケジュールのメモに、挿絵1枚1時間で描くってあった。速すぎ!