星舟庭初ライブ

あす30日18時から、両国アートトレイスギャラリーで、バンド「星舟庭」のライブやります。
イラストレーターの大鹿智子さんと、パイプオルガン奏者の原田靖子さんと、わたしの3人組です。
楽器は、おもちゃのピアノ、ピアニカ、スペインの笛、カリンバ、クラベス、鉄琴、太鼓、マラカス、カズーなど。
曲目は「カッパ」「いるか」「弱法師」ほか。
演奏はすべて即興です。海のように心のひろーい方、遊びにきてください。

ありがとう靴下

世の中に靴下というものがあって良かった。
もし靴下がなかったら、いちいち足の指を描かなきゃいけないからたいへんだ。
靴を描くのも足の指と同じくらいめんどくさいので、靴下ってほんとうにすばらしいなあと思う。

愉快な太鼓持ち

昨日は、楽器屋さんでお買いものしてから、単行本の装幀の打ちあわせのためPHPさんへ。
打ちあわせというと、近所か、新宿あたりの喫茶店で、ということが多いのだけど、こうして出版社に出かけていくのもけっこう好き。お宅訪問みたいで。
会社という場所に慣れていないので、好奇心まるだしできょろきょろしてしまう。
それにしてもPHPさんは、エレベーターを降りたとたん高級ホテルみたいな匂いがするし、「手頃な場所が空いてなくて…」と通された最上階の会議室はやたらと広くて重厚で、大きな窓からは永田町方面が一望でき、入り口にはでかでかと「シンクタンク」と書いてある。
シンクタンクっていうのは、賢い人たちが額を寄せ集めて考え事をする場所だと思う、たぶん。
そんなとこに、太鼓と、マラカスと、カズー(←へんな笛)を持ってやって来てしまった。。。

しかし革張りの大きな椅子は、わたしのお尻と鞄と太鼓を全部乗せてもまだ座面が余ってたし、でっかい楕円形のテーブルは、端っこに3人でちんまりと座っても、あまりにでかすぎて、いちいち中腰にならなければ、デザインのサンプルがよく見えないという愉快な状況。
楽しい打ちあわせだった。いいのが描けるといいな。

ガンホ会の大久保先生に、韓国映画「義兄弟」の試写会にご招待いただいたので観てきた。
ソン・ガンホとカン・ドンウォンがすごくかっこよかった。
わたしは映画もあんまりみないけど、みる時は、その世界にぽかーっと没頭してしまう。
役者さんがイケメンかどうか美人かどうかとかもほとんど気にとめない。(舞台なら目の前に人間がいるから少しはそういうことも考えるんだけど)

外国の映画だと役者さんの顔も名前も知らないのでますますなんにも考えない。
しかし没頭してるわりには見終わった後にストーリーを説明することはできなかったりするし、感動したのにもかかわらず、出てた役者さんのことはきれいさっぱり忘れてしまったりする。
じゃあいったいなにを観てるんだろう?自分でもよくわからん。

でも「義兄弟」は面白かった。途中で気がそれるようなことがなく、気持ちよく集中できた。これはとてもいいことだと思う。見終わった後も爽快だった。
でもいつもなら、ほんとにただ没頭してしまうんだけど、このところちょっと学習したので、ちゃんとカン・ドンウォンのイケメンぶりも鑑賞できてなるほどなあと思ったし、おお、これがいわゆる男の友情か~なんて、うっすらチャクラが開いたような気もするよ。

連休

連休っていってもどうせ仕事してるんだけど、ふだん負けてるぶんを少しでも取り返せるような気がして、気分的にはとてもラク。

バンド練

きょうはバンドの初練習。
両国のアートトレイスギャラリーにて。

。。。いきなりバンドという概念を根底からくつがえし、うっすらアートの匂いが(笑)

同ギャラリーで、明日から大鹿さんの個展「弱法師」がはじまります。
(大鹿さんといえばカラフルな少女のイラストの印象が強いですが、今回はモノクロームの世界。
子供たちの息づかいが聞こえてくるような絵です。30日まで。)

いろんなチャクラ

引き続き、チャクラが開くってどんなことだろう、とずっと考えてたら、熱が出た。(ヨガの用語のチャクラではなく、なにかに対する感受性が開くという意味に拡張してます)

まえに宝塚ファンの方とお話ししていて、好きなスターは?組は?と聞かれ、いえ、ただ舞台を見るのが好きで、と答えたら、宝塚を本当に楽しんでいないのねと言われた。
そのときは、舞台は自分の好きなように見ればいいでしょ、とちょっと腹が立った。
さらに、じゃあ宝塚ファンじゃないなら、何のファンなの?と聞かれた。何かのファンの人というのは、何のファンでもない人生を想定することができないらしい。
わたしはわたしで、ただスターを追いかける一方の人生なんて想像することもできないし、自分で何かを作りださない人生なんて、はっきりいってなにが面白いんだかわからない。

でもたしかにその人が言うとおり、宝塚ファンのチャクラが開いた人たちは、わたしの知らない幸せを知っているようで、なんだかこちらがとても損してるような気もする。
なにも見返りがないのに、全力でスターに愛と時間とお金を注ぎ込んでいる彼女たちが、見返りがない代わりに、幸せを感じているとすれば、あれは無償の愛なんだろうか。(でも自分の好みじゃないスターなどへの悪口や中傷もけっこう手ひどいように見受けるので、キリスト教とかでいう無償の愛とは違うとは思うけれど、、、。)

彼女たちは宝塚の舞台を観て「夢」を与えられるという。わたしはその意味がずっとわからず、宝塚音楽学校を受験できる年齢の人はいいけど、大人なのになんで夢なんか見られるの?他人に夢をかなえてもらえるはずないのに、なんて思ってた。でもいろいろ考えてるうちに、夢というのは将来の夢のことじゃなく「空想」または「妄想」のことなんだと思い当たった。
こんな基本的なこともなかなか理解できないくらい、どうやら頭の構造が根本的に違うらしい。
妄想ってのは欲望だと思うんだけど、頭の中でいろいろ楽しめるなんてうらやましいことだ。

宝塚に限らず、いろんなオタクについて、なんであんなに夢中になれるのかわからない。

学生の時読んだ就活のハウツー本に、趣味の欄には一晩中語れるようなことを書けとあった。昔も今も、そんな趣味はわたしにはない(だから就職できないのか?)
考え事なら一晩でも二晩でもするけど、趣味というには漠然としすぎてるからなあ。
小学生のときは、ふつうにアニメも見たし、ゲームもやったけど、今はまったく興味がない。
そういうチャクラが、開いてないというよりは、わたしにははじめから無いのだと思う。

しかしチャクラは、たくさんの情報を取り込んで蓄積していくことで開くものでもあるらしく、たとえば「執事」について、いろんな媒体から、ストーリーや、イメージを蓄積していくと、やがて執事萌えのチャクラが開くらしい。執事なんて実際に本物に接する機会もないのに、執事にお嬢様と呼ばれたいとか、朝起こして欲しいとか、怒られたいとか、よくわからんけど、たくさんの人たちが、執事についてのバーチャルなイメージを共有しているんだからすごい。

萌えって欲望であるのと同時にすごく知的な楽しみ方でもあるのだなー。
中学生くらいでその手の媒体に興味を持つかどうかが最初の分かれ目になって、その時期にアニメを見なくなったわたしには、最初からそういう資質がないのだと思う。
中学生の少ないお小遣いをどう使うかで、将来の方向性がけっこう読めるということだ。
そこでひとつ萌えチャクラが開いた人は、高校生になってバイトができるようになると、さらに別のチャクラを開いていくのかも。。。今からその蓄積に追いつけるはずないな。

わたしは小説や漫画を読むときに、そこに描かれてないストーリーを想像したりはしない。(そもそも小説も漫画もあんまり読まないんだけど)そんな高度なことはできない。
でもストーリーというものが(質はともかく)考えるまでもなく自然にわいてきてしまう人、想像力というか妄想力をもってる人というのが、世の中には意外とたくさんいるようだ。

わたしは二次創作物(同人誌とか)も好きではない。
素人が描いたものは抑制がきいてなくて、欲望がダダ漏れで下品だからイヤというのもあるが、プロが描いたものでも、外伝とかで、本編の辻褄の合わないところが全部収まってたりすると、それは本編を書くときに設定として考えてたのに描かなかったことだったのかもしれないけど、実際に描いてしまったことで、世界が小さくまとまってしまうようでもったいないなあと思う。

そのわりに、わたしの仕事は、小説を読んで挿絵をつけることだったりして、小説に書かれていない、人物の髪型や服装や背景なんかをひねりだして描く必要もあって、それは二次創作とも言えなくもない気もする。
まあ、ストーリーを付け足すわけじゃないし、想像というよりは、話の前後関係から推測してサイズなどの条件にあてはめるって感じだけど。
ふだん想像力を使わないでわりと即物的に素朴に暮らしてるので、仕事でむりやり想像力を使うことでバランスを取ってる、とかいうことあるかな。。。ないか。

そんなわけでストーリーについてはよくわからないけど、イメージはわたしの領域なのだよね。
でも歌舞伎も宝塚も、結局、衣裳がきれいとかそういうとこしか観てないような気がしてきた。
歌舞伎で浅葱幕が落ちて、花盛りの舞台がパッと出現する瞬間を見るだけで大満足できるもん。派手な空間が好きで、それでほんとにときめくんだよね、、、持続性がないのが難点だけど。
人間に関心が行ってないのかな。でも舞台上に人間にはぜひとも居て欲しいんだけどなあ。

迷惑メール

当然迷惑メールなんだけど「大学生のさやかです」ってメールがきてて、大学時代の自分からのメールみたいで、あたまがクラクラした。

イケメンのチャクラ

友人Kは次の仕事の企画書を書かなきゃいけないというのに、突然ゲームに目覚め、ときめきメモリアル(女性向け版)をやりこんでいて、イケメンのチャクラが開いたとかなんとか言っている(企画書にも役立つみたいだけど)。
それでわたしにもゲームをすすめてくれるのだが、そんなチャクラが開いたら、たとえば嵐の追っかけしたり、テニミュに通い詰めたりするようになっちゃうのでは。。。

そのゲームでは、登場人物のイケメンたちをデートに誘うために、それぞれのイケメンの好む「ヘアゴム」とか「バレッタ」とかを街中買い漁るんだって。
バレッタって、昔はみんな使ってたけど、いまはあんまり見かけないよね。。。
でも実際に、メガネっ娘好きがいるように、バレッタ好き男子ってのがいるんだそうだ。

そういえば、男性の作家さんの小説の挿絵を描くとき、ヒロインの髪型が「ポニーテール」だとか、「スカートと共布のシュシュ」をつけてるとか、小説の筋とは全く関係ないところでやたらと克明に描写されてることがあって、今どきそんな微妙なファッションの美女がいるはずがないので、非常に悩むんだけど、なにか大切なメモリアルなんだろうなと、なるべく忠実に再現しようと心がけてます。
AKB48もまさに「ポニーテールとシュシュ」って歌出してるみたいだし(プロだなあ)。

演劇通のAさんのお友達の娘さん(中学生)のクラスメイトたちは、嵐か、二次元か、宝塚か、そのどれかのファンに分かれるのだそうだ。(共学だと宝塚ファンなんてめったにいないだろうから、たぶん女子校?)その三択なら嵐がいちばん真っ当でしょうねーと言いつつ、先日、宝塚を観に行った。

しかも全国ツアー公演(都内の会場だけど)。だって演目が「蒲田行進曲」だったんだもん。さすがはつかこうへい原作だけあって、宝塚にしては密度の高いお芝居で、あんな濃ゆい人間関係は尋常ではないので、宝塚っぽくはないけど現実ばなれしていた。
銀ちゃんのギンギラスーツの着こなしは素晴らしかったし、ヤスの芝居がすごくうまかった。
全国ツアーらしく客席にスタアさんが降りてきて、至近距離で衣裳の布地の織目まで見えた。
ヤスなのに妙にグロッシーなリップに戸惑い、銀ちゃんの細くて長い足に感心した。Aさんは「つかこうへいが死んだら死ぬ」と言ってたほどのつかこうへいファン。わたしも舞台も映画も観てたし小説も読んでたくらい好きだったんだけど、内容は忘れてた。

Aさん曰く、銀ちゃんとヤスのSとMの力関係が逆転するのが見所、ということだったが、宝塚版は、小夏との三角関係にフォーカスしたせいか、その部分はあまりよく見えなかった。
というか銀ちゃんとヤスのキャスティングを逆にしたほうが面白かったんじゃないかなあ。トップ様が「もっと殴ってくれ」とかいって三番手にボコボコにされるほうが痛快なような。
そのほうが両方に意外性があってときめく気がする。なんかややこしい上に変態っぽいけど。フィナーレの銀ちゃんの電飾ピカピカのスーツがボリショイサーカスみたいで超素敵だった。

銀ちゃんの真っ赤なズボンを間近でみたら、石川遼くんのファッションを思い出した。
スターなのになんであんな、赤とか黒とか、ヒールっぽい色彩感覚のウェアを着てるのか、ヒーローだったらもっと若人らしいさわやかな色があるだろうに…と、疑問に思っていた。
まあわたしはテレビ見ないから、たまに見るネットニュースの写真の印象でしかないけど、遼くんに対抗する選手の方が、色彩的にはどう見ても庶民の味方っぽいのに、スターの圧倒的な輝きの前では、必ず霞んで見えてしまうのには感嘆するほかない。
あの着こなしっぷりは、スポンサーの意向だけでなく、本人の趣味でもあるとしか思えない。色って性格表すからなあ。意外にアンチヒーロータイプなのかなあ。
どっちみちゴルフわかんないし、ものすごくどうでもいい話だけど。。。
でもあの毒々しい色合いが、実はたくさんの人々に愛される絶妙なセンスなのかもしれない。

さっき、地下鉄に乗ってたら、向かいに座ってたマッチョな黒人さんが、黒シャツに、ゴールドと赤茶のダンダラ模様のものすごい布地のスーツを着ていた。

ぎ、銀ちゃん、、、!? カッコイイ!!

ついぼーっと見とれてたら、ひと駅乗り過ごしてしまったよ。
うっかりチャクラが開くところであった。

まだ夏

日曜日に、久しぶりに両親が東京に遊びにでて来ることができた。
母は最近テレビで歌川広重の絵を見て浮世絵に興味を持ったのだそうで、原宿にある、浮世絵専門の太田記念美術館に行くというので付き合った。
花火の風景や、団扇絵など、夏らしい風物の絵を集めた展示で、風景画は広重の絵が多かった。さすがにすてきで、見入った。
小さな美術館だけど、両親も楽しそうにゆっくりと眺めていた。
テーマのせいか、美人画は国貞とか英泉とか少々お行儀の悪い女性を描いたのが多くて、あまり母のお気には召さなかったみたいだけど(わたしは親しみがわいて好きだけど)。
学生の頃読んで面白かった、高橋克彦さんの「浮世絵ミステリーゾーン」という本が最近再刊されていたので、入門編にちょうどいいなと思って母にあげた。

浮世絵ミステリーゾーン (講談社+α文庫)

浮世絵ミステリーゾーン (講談社+α文庫)

  • 作者: 高橋克彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/20
  • メディア: 文庫

それから妹と合流して新宿のタカシマヤの14階でお昼をたべたら、広い窓からスカイツリーと東京タワーが両方見えた。だいたい同じくらいの高さに見えた。
どのくらい大きくなるのかなーと言ったら、両親が、スカイツリーは634m、東京タワーは333mだと即答したのでびっくりした。それって常識なの?

いままた怖い絵をたくさん描いてます。まだ下描きだけど、いいのができそう。
朝ドラの「ゲゲゲの女房」の影響なのか、この夏は、本屋さんに行くと、妖怪など怖い絵の本のフェアをよく見かけた。江戸時代の読本の挿絵とか。
見るとたしかに怖いんだけど、けっこうずばりと怖いものそのものを描いていて、好奇心丸出しで細密に描写されているので、かえってちょっと笑っちゃう感じがあって、あんまりわたしの絵の参考にはならないなあと思った。(だいたいあんな細かい絵は描けないし、怖いの苦手だからマニアックにもなれないし)
江戸時代には今よりもわからないことが多かっただろうし、夜に行灯の光で眺めたら、同じ絵でも、きっとずっと怖さを感じただろうなと思う。
ただ、葛飾北斎の百物語の絵は今みても本当に怖い。意外にシンプルなのに。
でも参考にしようにも、どうしようもない。構図や細かい部分を真似しても仕方ないので、こんな怖い絵が存在するのだ、ってことだけ心に刻んでおくしかない。

このごろ、肉じゃがのじゃがをかぼちゃに変えて作るのがお気に入り。甘いし、皮むきしなくていいからラクちんだし、人参なしでもカロチン摂れるし。
まだ暑いので味濃いめでちょうどいいし。。。

小話数題

いま描こうと思ってる絵の参考に『蜘蛛の糸』を読んだ(読んだことなかった)。
短いので、超遅読のわたしでも、新宿駅で読みはじめたら、明大前で読み終わった。
ふつうだったら新宿駅で読みはじめたら新宿駅で読み終わるだろう。
なのでまだ夏休みの宿題が終わってない中学生におすすめしたい。

巻末の年表によれば、芥川龍之介の卒論は「ウィリアム・モリス研究」だったとか。へー。。。アートアンドクラフト運動って文学にも影響を与えていたのだなあ。

先日、歯のクリーニングに行ったら、歯科衛生士さんに、歯ぎしりのしすぎで犬歯がすり減って丸くなっていると言われた。歯ぎしりってふたりにひとりはしてるらしいけど、まさか犬歯がすり減るだなんて。わたしがもしヴァンパイアだったら大変なことになってた。
それで眠るとき用のマウスピースを作ってもらった。透明のビニールみたいなやつ。
これつけると口開けて寝てるのかいつもよりのどが乾く気がする。

ヴァンパイアといえば、前に、干し椎茸を買って、ちょっとだけ使って、そのまま忘れてながいこと放置していて、あるときやっと気がついたら、袋の中にあったはずの椎茸がぜんぶコナゴナの粉になってたことがあった。
ヴァンパイアが砂になっちゃうときってこんなかしらと思った。

ところで、9月だというのに、きょうも世田谷区は36度あったらしい。
湿度も高いから、自宅でホットヨガができるなーと思ったけど、ホットヨガは好きじゃないからやらない。汗かきすぎて気持ち悪いんだもん。

でもこの夏はよくジムに通ってふつうのヨガかパワーヨガをやってた。
インストラクターによって、教えてくれる内容が矛盾しているのも面白い。
昔習ってたボイストレーニングと呼吸法が少し似ているような気もする。頭を空っぽにしてくださいといわれるのだけど、雑念がわくというより、頭が空っぽってどういうことだろうとつい考えてしまう。あたまがカオスのくせにねえ。。。
考えごとしなくなったらわたしはわたしではないと思うのだけど、それでも自然とまたヨガに行きたくなるのが不思議。

英会話教室は、だんだん飽きてきて、なんだか停滞した感じになっていたので、8月は思い切って自主的に夏休みにした。
定期的に通ってないと忘れてしまうことが多いのはわかってるけど、性格的に、飽きてしまったらもうなにやっても無駄なので。

それできょう久しぶりに行ったら、偶然きょう当たった先生が、問題点のひとつをみごとに解明してくれて、すごくすっきりした。
自分では、どこに問題があるのかすらわかってなかったのに。
どうも頭の中で主語と述語のイメージがむすびついていないせいで、英文をスムーズに記憶できないみたいなんだけど、いくら先生とはいえ、こんなことなんでわかったんだろう。

このごろずいぶん髪が伸びて、みずらが結えそうなほどだけど、結わない。
そういうとこは、わたしも大人になった。

前回の日記の補足

前回の日記を読んだ母から、身内の悪口を書くなというメールがきて、びっくりした。

頭がカオスであることの面白さと、アウトプットの切実さについて書いたつもりで、祖母のことを書くのは目的ではなかったし、悪口を書いたつもりも全くないんだけど。
一度アウトプットしたものに、言い訳をするみたいで面倒くさいし、わたしの祖母がどんな人かなんて、他人にとってはどうでもいいことだと思うけど、親戚とかが読んでるかもしれないので、説明不足と思われる部分を補足します。

わたしが考える「悪い性格」の定義は、嫌なものは嫌、やりたくないことはやらない、そういう自分に嘘をつかない、我慢をしない、という性格。(いじめや犯罪は、性格の悪さというよりは他人との関係上の心の弱さや病気だと思う)
「良い性格」は、疑う事をせずに素直に物事を受けとめ、物事を荒立てない性格。たとえばテレビのコメンテーターの意見を丸呑みしちゃうような、善良さ。
わたしがそんな良い性格だったら、今ごろこんな不安定な絵描きになんかなってねーよ。
年がら年中、目に映るすべてのものを片っ端から疑ってかかってるんだから。。。
でもわたしは性格の良い人には面白みがないと思うので、眼中に入ってこないから、そういう人とぶつかったりはしない。ケンカする理由もないし、こっちが不利だし。

何かを考えることや、創作することは、まず疑問をもつところからはじまると思う。だから性格が悪いこと自体は悪だとは思わない。良いことだとも思わないけど。

わたしは祖母のことは、正直言って好きではない。でも嫌いでもない。特別なことはなにもない、どこにでもいそうな、ふつうの老人だと思う。
子供の頃には数えるほどしか会ったことがなかったので、どういう人なのかよく知らなかったし、可愛がってもらった記憶もない。
実家に来たときはわたしもすでに大人で、老人というものが珍しくて興味を持ったけど、祖母は尊敬できるような人格者ではなかったし、教えてもらうようなこともなかった。
血のつながりがあるというだけの理由で人を好きになることは、わたしにはできない。
かといって、嫌いになるほど深いかかわりを持ったわけでもなかった。

でも、どうしようもなく、持って生まれた性格に似たところがあるなあとは思った。
だから慣れない土地で、毎日毎日テレビ見たり編み物したりするだけの祖母に同情した。
でも祖母はそれが同情されるようなこととは夢にも思ってなかっただろうし、孫がどう思っているかなんて気にもしてなかったと思う。
たぶん、そういうところが一番似ている。あまり他人を必要としない性格が。(祖母にはそういう分析をする力はないので、わたしが勝手にそう解釈しただけだけど)
冷たい性格みたいだけど、自分の世界は完結してるので、本人は不幸だとは思ってない。こういうところが、わたしと母が一番似ていないところだとも思う。
母は、優しくて、いつもわたしや家族のことを心配しすぎなくらい心配しているが、性格が良いか悪いかでは割り切れないところがあって、妙に器が大きい、不思議な人だ。

でも、わたしがあまり他人を必要としないからといって、全く必要がないわけではなく、わたしにはまだ先の人生があるんだから、外の世界とどうつながっていけばいいか、今までもずっと考えてきたしこれからも考えないといけないな、って話だったんだけど。
文章書くのはやっぱりむずかしいな(絵なら多少過激でもスルーしてもらえるのに)。
こんなことは、そのまま書かない方が世間体がいいのはわかってるんだけど、そういう無難なつながり方をしたいわけでもないのよね。

あたまがカオス

さいきんもうあたまがカオスでカオスで。。。
もともと言語能力が低いし、頭の中を整理したり、時系列を把握するのも苦手なんだけど、ふた月ほど、日記(やメール)を書くのをさぼってたら、ますます頭がカオスになって、どこから手をつけたら上手にほどけるものやら、わからなくなってしまった。
ツイッターも、つぶやきが、というか人々が、ただの文字にしか見えなくなってきた。
それにしても、日記を書かないですごす日々は、ほんとにもう気楽で気楽で、いちいち出来事を言葉に変換するのがこんなに精神的な負担になってたとは思わなかった。

いろんなことが言葉にならないままワッとそこらじゅうにある感じはエキサイティングで、このカオスが、ある意味ではいちばんわたしらしい部分だとも思うのだけど、たまには、感じたことを日記でもなんでもいいから言語化していかないと、このままでは頭の中が完全にガラパゴス化してしまうかもしれない。

友人Kはちょっと前に「頭の中の本棚がいっぱいになってこれ以上本が読めない。でも頭の中のDVDラックにはまだ余裕があるから、最近は映画ばかり見ている」と言っていたのだったが、しばらくしたら、今度は、「頭の中の古典のコーナーに空きがあったので最近は古典を楽しく読んでいる」と言う。
彼女の頭の中には本棚というより本屋さんか図書館があって、脳みそのしわしわのひとつひとつがジュンク堂みたいな重厚な本棚になってるのだろう。

わたしの頭の中には、本専用の棚ははじめからない。
そのかわり、頭の中には、ぽっかりと、鍾乳洞みたいな真っ暗闇のスペースがある。
そこに一応岩棚もあるけど、湿気が多いので本を置いておくにはあまり適していないのだ。

実家にいる88歳の祖母は何年か前からだんだん魂が抜けていってる感じで、重大な病気はないけれど、この春頃からは完全に要介護の人になってしまった。
両親がかなり大変そうなので、役には立てないけど、なるべく実家に顔を出そうと思う。

祖母は、15年前に祖父が死んだ後、函館から縁もゆかりもない千葉にひきとられてきて、その時点で、社会的な役割も、世界とのつながりもまったくゼロになってしまった。
もともと頭は悪くないけど、不器用で、性格が悪い(そのあたり血のつながりを感じる)。
でも、性格の悪さをカバーするような教育やテクニックも身につけていないので、変に卑屈になって、びくびくして、ますます性格がねじれているように見えてしまう。年齢のせいもあるかもしれないけど、それをうまく隠すこともできなくなっていた。(と言っても、悪意はないし、なにか悪いことができるほどの力も持っていない)

祖父が死ぬまでは、自分の小さな世界で、自分の好きなように生きてきたので、誰かに何かを頼むとか、自分の思ったことを言葉にして伝える必要もなかったんだと思う。
おそらくもう何十年もまともに文章を書いたり読んだりしていないはずだし、今はもうぼんやりしてしまっているけど、ボケるずっと前から、あまり頭を使っていない。

だからこの人の中ではいろんな記憶がカオスなまま、無自覚なままになっている。
幼い頃に養女に出されたり、赤ん坊を何人も亡くしたり、戦争で樺太から逃げ帰ったり、昔はよくある事だったのかもしれないけど、今なら信じられない酷い目にあってるのに、自分が可哀想なのだと気づいてないし、誰かに優しい言葉をかけてもらったこともない。

父や母に身の回りの世話をしてもらっても、素直に受け入れることができない。
ボケる前には辛い思い出話を何度も繰り返してたから、やっぱり傷ついていたのだろうが、話の整合性がないし、客観性もないし、時系列も変なので、聞いててけっこう苦痛だった。
この人を見てると、コミュニケーション不全は昔からあった問題なんだと思う。
もともとカオスな性格の人が、カオスなまま年をとるとこんな最後をむかえるのか。

いったい、わたしとこの人はどこがどう違うんだろうと思う。
実家は千葉の片田舎で不便なところではあるけど、祖母自身、外の世界におびえていて、家のまわりから自力で出て行こうとしなかったし、一種の引きこもりだったと思う。
でもふしぎと生命力だけは残っていた。その生命力が、目に見えて消えていく。こうやって人は死んでいくのか。この人の人生はなんだったんだと考えてしまう。

それに、世界とつながるってどういうことなんだろう。

で、ああ、時間は無限ではないのだなあ、カオスはあまりよろしくないなあと、絵本のことをもう一度ちゃんと考えようと思った(何度も忘れては思い出している)。
ひとつアイディアがあったので、友人Kに入れ知恵してもらったら、それを元にあまりにも鮮やかにお話を作ってくれて、かえって戸惑ってしまったりしつつ、やっと、なんとなくあらすじらしきものがみえてきた。ここまで3年くらいかかった。

もともと絵本に興味がないのに、なぜ一枚絵でなく絵本にするのかというのもみえてきた。
そこで、昨日、編集さんに、ここまではできるんです、でもここからが大変なんです、岩清水さんはカオスなんで、この先は言葉じゃなくて絵で考えてくださいと言われた。
おおお、、、やっぱりそうですか。。。
絵というのも、言葉とは違うけど、けしてカオスではないので、すごく面倒くさい。
でもこのカオスの中から何かビビッドなものを取り出せるのならば、わたしの場合それは絵だし、できるだけ取り出して形にしていかなきゃなとは思う。

絵の中にしか存在しない時間

わたしは小説の挿絵からイラスト描きの仕事をはじめたので、絵とは、連続する時間(ストーリー)の中の一瞬を切り取るものだと思っていた。

瞬間の積み重ねが時間になっていくという、微分積分的なイメージ。
お話の要点をまとめた説明的な絵や、重要なアイテムを描くこともあるけど、わたしがいちばん描きたいのは(お話のネタバレにならない範囲で)、人物が何かに気づいて、驚いたり、ときめいたりして、世界がぱっと開ける瞬間。
けして、ただ単に美しかったり見栄えがする場面というのではない。

わたしは怖いお話の挿絵を描くことが多いのだが、なるべく、怖いものそのものではなくて、怖さに気づいた瞬間の人物の表情を描く。
何に気づいたか、何が怖いかは、読者の想像にまかせたほうが、より怖い絵になる。
挿絵を描くときには、小説の力と、受け取り手の想像力を利用させてもらっている。
すごく面白い作業だと思う。

でも同時に絵というのは、前後の時間とはまったく関係なく切り離されたもので、忽然と現れた「瞬間」は、それ自体が永遠の時間でもある、という見方もできる。

たとえば階段の真ん中に立っている人物の絵を見たら、その前後の連続する時間に、上がるか降りるかする様子を反射的に想像してしまうのではないだろうか。
でもこれは一枚の絵であって、写真でもアニメーションでもないから、前後の時間ははじめから存在しないし、人物が移動することは絶対にない。(その瞬間が出現する前は、ただの真っ白な空間と画材だったともいえる)

その人物は、なんの理由も脈絡もなく突然その階段の真ん中に出現したのだが、存在してしまったものはないものにはできないので、そのまま受け入れるしかない。
絵は物体だから壊れる可能性もあって、厳密には永遠ではないかもしれないけど、少なくともその人物がその階段から離れることはありえない。

こんな時間の感覚は現実には存在しないけれど、絵だからこそ存在し得る。
わたしは実物を見たりせずに全て想像で描くから、よけいそう思うのかもしれない。
そこにストーリーは入り込む余地がない。
ストーリーの入る余地がなければないほど、絵としては完璧なような気もする。

どんな抽象画であっても、絵からストーリーを読みたがる人は多いだろうと思う。そうでなければ、技術的なこととか歴史とかを評価したりする見方になるのかな。
いろんな見方をしていいのだけど、想像力をいったんとめて、できるだけ頭を使わずに、絵の中にしか存在しない永遠を味わうのも、絵を見るひとつの楽しみ方だと思う。

そのためにはもとは画材だったことを想像させない完成した世界を見せる必要がある。
そういう絵を見せられるようでありたい。
(ライブペインティングとかで描く途中を見せるのもまた別の面白さがあるけどね)