2次元と3次元

わたしの絵はデッサンとかめちゃくちゃだということはよくわかってるけど、2次元で紙に描いていると、それはそういうものとして成立してしまうところがある。

オブジェを作る時にいつも考えるのは、その絵を3次元におこすとどうなるかということ。
しかもわたしの絵は線描で、その線はリアルには存在しないものだから、3次元になった物体に線を描き込むと、そのヘンテコさがすごく際立って、超スリリング。
輪郭の黒い線を立体化したら、本当は、表面は全部真っ黒に塗りつぶさなければいけない。さすがにそれやっちゃうとアートになっちゃうからしないけど。

他の部分の線も不自然なんだけど、描かないと不思議ともの足りなかったりするので、不自然になりすぎないようなギリギリの線をみつけて描いていくという変な作業。
線描ってほんとに不思議で、なんで現実には存在しない「線」で描いたものを、人間は情報として認識できるのか。子どものときから線の絵を見慣れてるおかげなのか。古代の洞窟壁画も線描ということは、人間は最初から線で世界を認識しているということ?

あと陰影。本物の立体なんだから陰影をつける必要はないのに、あえてつけるのが面白い。
人間そっくりなものを作りたいわけじゃないけど、人間として認識できる必要はあり、もともと矛盾したものを、上から下から斜めから見ても矛盾を感じさせないようにして、なによりも可愛らしく作らなければならないんだから、意外に気をつかっている。

ちなみに、2次元の絵を描く前に最初にわたしの頭の中にあるイメージは4次元だと思う。
3次元のものを2次元に落とすときはデッサンが必要になるのかもしれないけど、4次元から2次元にするのならなんでもありなんじゃないかなあ。
で、4次元の自由でふわふわしたイメージを2次元に落とし込んでいくときに、2次元だからこそできる形式や方法を使うことで膨らむ部分もあるし、新しい発見もある。

そうしてできた絵は一つの完成形だけど、逆に拾いきれずに落としてしまうイメージもある。
それが惜しくて、絵には描かないで取っておきたいイメージもある。
でもわたしの頭の中のイメージはわたしにしか見えないから、それを誰かに見せたければ、なんとかいちばんしっくりくる方法を見つけて、頭の中から取り出さないといけないのだ。

ところで、いわゆる2次元キャラ萌えがどうにも気持ち悪い感じがするのは、元の頭のなかのイメージも2次元だからなんじゃないかという仮説をたててみた。
わたしは萌えがないので検証できないんだけど、どうなんでしょうかね。

やばいやばいやばい!

〆切ってヤツは、重なる時には重なるもので。。。
発泡スチロールの彫刻と並行して、先週からずっと実用書のためのカットを描いていて、全部で69点、今朝納品した。こういうお仕事はわりと気楽なんだけど、数が多いと大変。

ナイフを振り回して削りまくって腕がしびれてくると、PCに向かうことの繰り返し。
スチロールの削りくずは粒子が粗いので同じ仕事部屋でPC使ってても大丈夫…だよね?

というか彫刻のほうも今日くらいまでにといわれていたはずなのだが。でも〆切延ばしてもらっても、今週は雑誌の挿絵の〆切もいくつかあってかなり厳しい。

体力的にもだいぶしんどくなってきた。。。

とはいえ仕事が忙しいときは仕事のこと以外考えないからその点では楽かも。

修羅場なう!

仕事部屋じゅうにブルーシートを張りめぐらして、また発泡スチロール彫刻やってます。

今回新しくハンズで買ったナイフが使いやすかったので「村雨くん」と名前をつけた。
どこがいいって、小ぶりで小回りがきいて、しかも刃の裏表両面で切れる。
だからナイフを上から下に降ろしても下から上に引いても切れるので無駄がない。それに先っちょも切れるから細かいとこを削るにもすごく便利。
去年は大活躍した「斬鉄剣」は長すぎるので今回はほとんど使いみちがなさそう。
ハンズで新しいタイプの電熱カッターもみかけたので欲しかったけど、今回は見送った。
でも、ハンズ参りは怠ってはいけないな。道具ってほんと大事。

挿絵本の世界展

きょうは町田で大学の同期とランチの約束をしてたので、ちょっと早めに出かけて、前から一度行ってみたいと思っていた町田市立国際版画美術館の、「挿絵本の世界~きれい、カワイイ、怖い 本と版画のステキな関係」展へ。

まずヨーロッパの印刷の歴史のおさらい。木版・手彩色の聖書の挿絵からはじまり、活版印刷の活字と挿絵の角度がおもいきりズレたものが展示されてたりして、マニアック。「神曲」の挿絵の中に登場人物のイニシャルが書きこまれてて、新しい!と思った。

この展覧会のメインは19世紀ヨーロッパの華やかな挿絵群。これを、きれい、カワイイ、怖いの3つに分類しましょう、ってのが面白い。

「きれい」はバーン=ジョーンズ、ミュシャ、ルペール、バルビエなど。
ミュシャは好きじゃないけどやっぱりすごい。バルビエは最高よね(うっとり)。
「ガゼット・デュ・ボン・トン」の原書は初めて見た。こんなに分厚かったんだ。
初期の資生堂デザインの元ネタ満載のファッション誌(でも今の感覚だと超豪華本)。ポショワールといって、ステンシルみたいな手作業で着彩されてたそうだ。ははあ~。
印刷といっても版画みたいなもので、ごく少部数だし、そりゃ上流階級志向にもなるわ。

「カワイイ」はウォルター・クレイン、ケイト・グリーナウェイなど。
グリーナウェイってべつにそんなに絵は上手くないと思うんだけど、たしかにカワイイ。でもこのカワイイは、昨今日本でいわれてるカワイイとは微妙に違うカワイイだと思う。

「怖い」はウィリアム・ブレイク、ビアズリー、マネ、ルドンなど、すごいメンツ。
そう「怖い」は一大ジャンルなのだ!もちろんみんなモノクロ。怖いはモノクロ。
怖いがいちばん見るものの心にダイナミックにゆさぶりをかけてくるというか、扇情的というか、もうちょっとで下品の側にころびそうな危うさを感じさせた。
ここまでだけでもすごい数の絵で、かなり見ごたえがあったけど、テニエルとかラッカムとかの絵がなかったのがちょっと意外なような気はした。

最後のコーナーは、20世紀のアーティストによる挿絵。シャガール、ドニ、ピカソ、デュフィ、カンディンスキーなど。
シャガールは彼の世界をそのまま小さくした感じ。デュフィ素敵。ドニも可愛くて大好き。
でもいちばん気に入ったのはオスカー・ココシュカの力強い線描の挿絵だった。

ヨーロッパの挿絵に描かれている人物って、風景と同じ強さというか、顔の描き方が非常にそっけなくて、したがってキャラクター性がほとんどなくて、それが全体の調和と、落ちついた上品な雰囲気につながっている。同じ版画でも、日本の鈴木春信とか歌麿とかはかなりキャラクターが強い。

浮世絵は人物にフォーカスするあまり、全体の構成はいいかげんだったり、背景を雲母刷りでごまかしたり適当なのも多い。でもそのぶん粋で、勢いがある。

見る前は、きれい、カワイイ、怖いに「カッコイイ」を入れてもいいのでは?と思ってた。
でも、カッコイイという価値観は、あちらの挿絵には、もしかすると元々ないのかなあ。

「おしゃれ」なカッコよさはきれいに分類できるだろうし。日本の小説挿絵だと、剣豪ものとか、カッコよくヒロイックに突き抜けたものも多いけど、ヨーロッパのものって、上流志向なせいか騎士道ものでもカッコイイよりきれい寄りだし、今回はなかったけど、もっと大衆的なミステリーとかの挿絵でも上品で妙に大人っぽい。
でもラファエル前派なんかはけっこう庶民的で下品だし、カッコイイも探せばあるのかも。さらにもうひとつ分類を加えるなら「エロい」だろうけど、、、。

図書館情報学専攻だった友人Kによれば「本」という形態はそれ自体すごい大発明だった。
「本」は便利だったからこそこれだけ利用され、広まった。
いま電子書籍の話題でもちきりだけども、基本的に世間は便利な方向に流れて行くと思う。
わたしの絵は一応CGだから、電子書籍で見られることに対する抵抗はなくて、なるようになれという感じだけど、紙の本って、やっぱり魅力的だよねえ。。。

もったいない

いいイメージを思いついてたのに、なんかもったいなくて紙に描き写す気持ちになれず、結局しめきり延ばしてもらっちゃった。
イメージ劣化させたくなくて。。。でも描かないと仕事が!

日本画入門

学生時代のサークル仲間のSちゃんは、その当時から日本画を習っていて、プロではないけど、今は教室で先生の代わりに教えたりもしている腕前。(ちなみにSちゃんのおばあさまは伊東深水のモデルをしたことがあるとか。ふおお)

きょうはSちゃんの自宅アトリエにお邪魔して、日本画の技法を教えてもらった。
日本画を習うのは、道具とかお月謝とか、なにかとお金がかかりそうだけど、友達にちょこっとさわりの部分だけ教えてもらうくらいなら気楽にできるかなあと。
ちょうど昨日、アクリル画の描き方を変えようと決意したところでもあるし。

事前に「箔」だけは自前で用意してねといわれて渋谷のウエマツに買いに行ったのだが、金箔ってものすごい高いのね!…まあそりゃそうか。当然、一番安いアルミ箔を買った。
アルミ箔といっても、お料理に使うのとは違って薄いので、けっこうな値段したけど。
でも日本画の絵の具売り場に並んだ、瓶入りの岩絵具の色とりどりの粉末、あれを実際に使ってみることができるかと思うととってもワクワクした。

Sちゃんが、前もってニカワを湯煎で溶かしておいてくれたので、最初に、2種類の和紙に墨汁&紺色の絵具でグラデーション状に地塗りをしてから、乾かして、片方にはドーサを使ってアルミ箔を貼り、もう片方には胡粉を塗った。

紺色の絵具は固い棒状で、墨をするみたいに根気よく水に溶かさないと使えない。胡粉は貝殻の粉末で、おひな様の顔の白。すり鉢で砕いて、ニカワで練って、水に溶く。使いたい絵具はいちいち擦ったり捏ねたりしなきゃいけなくて、とにかく時間がかかる。
箔は手で直接は触れないので、一旦、ロウをひいた「あかし紙」にくっつけてから貼る。薄くて鼻息でもすぐ破けるし、皺が寄らないように貼るにはかなり神経を使う。

金閣寺の(趣味の善し悪しはともかく)あの箔の貼りっぷりはすごいんだな~と思った。で、乾くのを待って、手でグチャグチャに揉んだり折り畳んだり表面をこすったりして、面白い模様つきの紙ができあがった。和紙ってこんなにしても破れないんだねえ。
それからもう一度水を含ませた刷毛を使って紙の皺をのばし、でんぷん糊を水に溶かしたのを塗って、裏にもう一枚薄い和紙を貼って補強した。

これでやっと下地づくり完成。きょうはここまで。絵を描くとこまでいかなかったけど。
Sちゃんは教え方がうまくて、いろいろ聞くとちゃんと的確に答えてくれるので、乾きを待つ間にもいろんなこと教えてもらって、たくさん頭を使って、けっこう疲れた。
とにかく悠長で、現代とは思えないやり方だけど、同時にすごく合理的な理由もあって、(ニカワの水溶液は腐りやすいから固形で保管して使うたびに溶かすとか)道具や手順のひとつひとつに先人の試行錯誤や知恵の積み重ねが感じられた。

わたしはずっと自己流で絵を描いてきたので、なにかすごく圧倒されるものがあった。
それに、絵の具って、いつも何気なくチューブから出してじゃんじゃん使っているけど、本来こうやって大事に大事に研究を重ねて作ったり使ったりする、それ自体宝物なのだ。
金箔だけでなく、こんな宝物を使ったら、中途半端なものは描けないだろう。
手軽なアクリル絵の具も、すごい技術の塊で、やっぱり宝物に違いないなあ、と思った。

「温かな手」文庫版

ミステリーズ!連載中の挿絵、単行本の装幀イラストも描かせていただいてた、石持浅海さんの連作ミステリ「温かな手」の、文庫版の見本が届きました。

単行本よりシンプルなイラストです。
やっぱりミステリは文庫でね、こうポケットとかに入れて持ち歩いて、空き時間におもむろに取り出して読むというのが、いかにもサマになるなあと。

温かな手 (創元推理文庫)

    • 作者: 石持浅海
    • 出版社/メーカー: 東京創元社
    • 発売日: 2010/05/11
  • メディア: 文庫

劇団チャリT企画「アンポテンツ」

今年で60年安保から50周年なんですって。。。知ってた?

王子小劇場にて、早稲田劇研OGのSさん&Aさんと、劇団チャリT企画を観劇。
いまはコント中心に変わってしまったという劇研の伝統を守る最後の劇団。
それにふさわしい濃ゆい作風、バンカラ☆ポップってキャッチがまさにぴったり。
あの異様にキレのいい動きと滑舌、それにお得意のストップ・モーションも健在。
ちょっと「ゴドー待ち」っぽいところがあるのがまたなんとも。。。
昔は劇研系の芝居って暑苦しいなあと思ってたけど、今となってはかえって貴重。

テーマは過激といえば過激かもしれないけど、よくまとまっているし、セリフがぜんぶきっちり聴きとれるので余計なストレスなく観られる。
でもなにかスゴイ衝撃が脳天にガツンときた。劇研観た!って感じ。学生運動のシュプレヒコールとか、夢にでてきそう。笑いすぎて涙出た。
なんだかどっと疲れて、ついつい帰りにパフェ食べちゃったよ。。。

心が貧しい?

日本人は豊かになったけど心が貧しくなりました的な話って、なんだかありがちな童話みたい。
ほんとに面白くなるのはここから先なのに。
こんなこと言ってると自分から不幸になってく気がする。
日本人っていってみんなひとくくりにするのもどうかと思うし、心が貧しいってほんとなの?
しかもこれ誰からの視点なの。なんか上から目線な気がするんだよね。

遅ればせながらFacebook登録してみました。mixiもMySpaceもほとんど放置してるんだけど。。。

お屋敷町探検

きょうは、あきさんと遊びに。田園調布のお屋敷町の散策。
ひさしぶりに春らしいお散歩日和でよかった。
学生の頃に住んでいた、日吉の町のつくりは田園調布の真似だと聞いていた。
田園調布駅には今回初めて降りたけど、たしかに放射状の道の形はそっくり。
でもあのがちゃがちゃしたひようらとは全然違う。。。まあそりゃそうか。。。

よく東横線の窓から見上げていた、丘の上のお屋敷を間近でみるのが面白かった。
スケッチブックを持っていったけど、見所たくさんで絵をかくどころじゃなかったし、個人のお宅をあまりじろじろ観察するのもなんなので、どんどん歩きまくった。
大きな木や植物が多くて、家なんだか森なんだか?みたいなお家がたくさん。立派な大きなお家ばかりで、なんだか感覚が麻痺しそうだった。
でも手入れが大変そうで、実際、壁がはがれてたり、表札にガムテープが貼られたり、更地になってたりするところもぽつぽつみかけた。

あきさんはなぜか有名人の住んでるお家にくわしいので、いろいろ見て回った。
政治家のお家のまわりには何人も警察官が立ってたりした。
でもわたしはそれより古いお家の手すりとか窓枠とかを見るほうが興味深かったかな。
あとすごい急な坂道も。下がってまたぐっと上がるのが一望できて平衡感覚が狂った。

それからおなかべこぺこになって目黒に移動して「デラッセ」でフレンチ。
おーいーしーかったーーー。

絵を描くのってしんどい。。。

このところ、2年前に描いた絵、12枚ほどの描き直し作業をしている。
最初に描いたときも、正直言って完成してるとは思えなかったのだが、あれ以上どうしていいかわからなくて、そのままになっていた。
いまみるとすごく雑で、これまだ下塗りじゃん、って感じ。
新しい絵を描くのもいいけど、描きたい世界そのものは2年前と変わってないし、骨格はそのまま残していいと思う。それでいかに完成度をあげるか。

キャンバスに描いた絵だから、上から何度重ねても大丈夫なのは良かった。
紙に描くほうが気軽だし、絵の具のなじみ具合とかも好みなのだけど、あんまりいじると汚くなってしまう。キャンバスに描く利点はこんなとこにあったのか。

展示のためとか、締め切りがあって描くわけじゃないので、(わたしは締め切りがないと描かないと思っていたけど!)手順も決めずに、ぱっと思いついた色を納得がいくまで何度も何度も重ねていく。

わたしが絵の具で描いたのは4年前の個展のときがほぼ初めてで、あのときはヘタなりに試行錯誤して、一枚一枚違う絵の具の使い方をしようとしてた。

その翌年くらいに、ある人に、人物を大きく描いてみたらとアドバイスされた。それも面白いし、やってみるだけやってみようと思った。
でも、あの目がでっかい人物は、大きく描くとすごくバランスがへんになるのだ。
絵自体はシンプルだから、持たせなきゃいけない空間も大きくなる。それは太い筆で描いたら解決するかなと思って試したり、たぶんアドバイスしてくれた人は背景は少なくするべきと思っていたのだろうけど、じつはわたしが描きたいのは人物より背景なので、人物を大きくするにつれて、どんどん背景も大きくなっていった。
結果的に絵自体が大きくなっていって、こないだはあんな壁画まで描いてしまった。

でもそうしてるうちに、塗り方や色に注意を払うことがしだいにおろそかになり、そこに頭を使わなくなって、手順が決まってきて、雑になってしまった。
ただでさえ、絵が大きいと小さい絵では気にならないアラが目についてしまうのに。
こないだ壁画をやったときに、そのことを痛感したのだった。
壁画じゃなくても、5枚組とか7枚組とかの連作を描いたときも、全体の世界観は悪くなかったけど、一枚一枚の絵を見せることができてなかった。
よくお客様に世界観があるね、と言ってもらってたのは、褒めてもらってたんじゃなくて、それ以外はダメだねって意味だったのだなあ。。。

絵の具をざっと薄塗りしただけでセンスよく仕上げられる人もいる。そういうの粋でカッコいいな~と思うけど、わたしのやりかたは違う。
下塗りの段階で終わりにしてもいいかも?と思うことも、塗り重ねる前の写真と比べたら、前のほうが良かったんじゃない?ってこともある。
イラストの仕事では、不完全な状態のほうが良さを出せることだってある。
でもしつこく何度も何度も塗り重ねないと、納得がいかないのだからしょうがない。塗り重ねた結果のほうが良かったと思えるような描き方をさぐっていかないと。

そうやって描いてると先が見えないのでけっこうしんどい。絵を描くのって大変。
使っている絵の具の特性もあって、わたしが絵の具で描いた絵は色合いが淡くて、妙におとなしくて、PCで描いた絵のような弾力がもうひとつ欠けている気がする。
PCで描いた絵のほうが仕事にもなってるし、やっぱり印象も強いのだと思う。

そこを埋めていくことはできるだろうか?
うーん、、、単純に画材を変えたほうがいいのかな。。。

つぎに描く絵

絵を描きながら、つぎに描く絵のことを考えてたりする。いつもこんな調子。
集中力がない。でも夢がふくらんでくのをとめられない。。。
だって描くより考える方が楽しいんだもん。

カッコ良きもの

昨日は雪が降ったりしたけど、きょうはいい天気。
両親と妹と舞浜駅で待ち合わせて「ZED」を観に行った。シルク・ドゥ・ソレイユ、やっぱりとってもすばらしかった!

わたしは1年半ほど前に、オープンしてすぐに1度観ていたく感動した。
そのときは安い端っこのほうの席だったので、もう一度、今度はぜひ前のほうの席で観たいなあと思ってた。
で、今度は真ん中の、前から8列目あたり。これより前だとずっと見上げる形になってきついだろうと思ったので。それでも頭の上までぶんぶん人が飛んできて迫力があった。
クラウンたちも近くまでやって来て、なにやら父もいじってもらってたし。

ただ、、、1年半前と違って、空席がすごく多かった。日曜なのに。。。
ちょうど先週くらいに、以前は休憩をはさんで2幕形式だったのを、1幕形式にリニューアルしたばかりなので、お客さんも入ってるのかと思ったら。
余計なお世話かもしれないけど、大丈夫なのかなあ?客席が広すぎるだけかなあ。それにしても。。。

相変わらずのすばらしい演技に、こちらも一生懸命拍手したんだけど、その音がみんな広ーい空間に吸い込まれてしまってもう一つ盛り上がらない。
うーむ。。。心の底から残念だ。

リニューアルしたといってもほとんど内容は同じだったし、専用劇場だから大きくは変えられないのだろうし、人間ってすごいなあと思う反面、あまりにもすごすぎて親しみがわく感じではない。リピーターははじめから期待されてないのかなあと思うけど、プレミアシート一枚でディズニーランドのパスポート3枚分のチケット料金で、上演時間が1時間半では、子ども連れの観光客とかにはなかなか厳しいだろうなー。(でもいま端っこの席で観ると、周りがガラガラだから気分的に盛り下がると思う。だから観るなら無理してでも一番高い席がいいと思う。)
ディズニーリゾートの全体的なニセモノくささの中にあって、あれは本物だと思うし、ああいうほんとにすごいものには、残っていってほしいけどなあ。

けさ新宿駅に映画「タイタンの戦い」の車田正美が描いたポスターがいっぱい貼られてて、デッサンとか画面構成とかめちゃくちゃなんだが、なんだかすごく突き抜けてて、ああ、やるならここまでやらなきゃいかんよな~と思って、一日中、カッコいいとはどういうことか、について考えていた。

カッコ良さって、アート的とかオシャレ的な洗練方面に行くこともあるし、ヒロイックな方向、劇画的だったり、オタク的萌え方向に行ってしまうこともあるし、かと思えば不良っぽかったりヤンキーだったり、孤独感みたいなこともあるし、でも陶酔感みたいなものがあるのと同時に、客観的な評価でもある。
なんというか、極端なことがいいのかな。。。

ZEDはあれだけよくできてるけど衣裳のテイストとか外国風ヤンキーって感じ。洗練されてはいるが実は超悪趣味。フィギュアスケートとか新体操とかの衣裳に似てる。

わたしはどっちかといえばヤンキーよりファンシー寄りなつもりでいたんだけど、そうでもないのかも。。。好きなものにヤンキー的なものも多いしなあ。歌舞伎とか。
しばらく、わたしの中のカッコ良さについて考えてみようと思う。

長電話の覚え書き

ここ2ヶ月ほど、しょっちゅう友人Kと長電話していて、たぶん平均したら毎日一時間以上しゃべってるんじゃなかろうか。ヒマなのか?

もう15年のつきあいで、なにをそんなに話すことがあるんだと思うが、というか、わたしからはもうほとんど話すことはないので、いつものように友人Kがいっぱいしゃべってわたしが適当に相づちを打つ。
話題はおもに演劇についてなので、わたしには専門外。でも雑談にしては濃い話。何でも話せる相手が親友だとか、ともに笑いともに泣けるのが親友だとか、いろいろあるけど、わたしたちの場合はなんかもうこういう関係性なのだよね。

脚本&演出家である友人Kとこれだけたくさんしゃべってるんだから、わたしにも少しくらいは演技力とかついてそうなものだけど、、、(笑)
まあそんな力がついてたとしても、試す機会もないか。
それに友人Kのやりかたで演技力がつくかっていうと、それは目的ではないだろうし。わたしも、ちがう自分を演じたいとかまったく思わないし。

友人Kには役者の本質に近いものを見つけだす才能があるんだと思う。
友達になった頃は、まさかそんな才能をもった人だとは思わなかったけど。

これこれこういう人だからこういう役を当て書きしたんだよねーとか、こういう役を当てて書いてみたら、ほんとにその人にはそれに似た部分があったとか、芝居や、役者について説明するのをこれだけたくさん聞いてると、知りあいでもなんでもない役者さんたちのことを、わたしまで好きになってしまう。
辛辣なこともいうけど、その役者さんの魅力について話すほうがずっと面白い。
最近は、役者を魅力を演出することで、観客を悶絶させる面白さに目覚めたという。(それは怖い挿絵を描いて小学生たちを夜トイレに行けなくする面白さとは違うのかな?)

その人の本質を引き出すのは、本質に近いほうが魅力的だからということらしい。本質に魅力があるのってふつうの人でもそうだし、それがスターだったらなおさら。

すべてのことに理由があるというのは危険な考え方だと思うけど、やっぱり誰かに興味を持つには無意識だとしてもなにか理由があるんだろうし、それが役者と観客の関係だとしても、なんで魅かれるのか知りたいって思うものね。
でも別人を演じることでかえってその人の本質に近づいてくってなんだかすごく不思議。

素の表現、というのは先日見学した、前川さんのワークショップのテーマだった。
友人Kも、ずいぶん昔、学生時代に前川さんのワークショップに参加していたことがある。といってもほんの数ヶ月間だったので、その後の経験のほうがはるかに多いに違いない。
でも、ぐるっと一周まわって、いま、180度くらい作風もメソッドも違う二人が、素とか本質とか、同じことのような気もするし全然違うような気もするけど、なんとなく似たようなこと言ってるのはちょっと面白いなと思う。
演劇というのが全般的にそういうものなんだろうか。。。いや、そうでもないような。とにかく、舞台の上でふつうでいるのはむずかしいことらしい。

友人Kの場合、さらに同時進行で表面を華麗にデコレーションする作業もした上で、描きたいのは人間と人間との関係性なのだという。
日常ではありえない状況を作って、じわじわ追いつめて、感情を爆発させるんだけど、たしかに、その爆発はつねに人間関係に反応することで起こるように作られている。
それをじーっと観察してるんだから、わが友人のことながら、なんとも意地悪だよなー。

友人Kの舞台は、セリフに書かれてないこともたくさん読み取らなきゃいけないので、ストーリーは単純なんだけど実はすごく情報量が多くて、観るのがたいへん。
わたしなんか空気読めない人なのにさーーー!
そういう人にもわかるように作らなきゃいけないんだから難しい仕事だよまったく。

で、ためしに、友人Kに、そんならわたしになんか当て書きしてよ。と聞いてみたら、「うーん、、、女流漫画家?」とかいう。
それは、たぶん、いまのわたしとそんなにかけはなれてないよね。
てことは、ふだんからわたしはほぼ本質に近い状態で生活してるってことなのかな。
まあ、それがふつうか。。。