「空気が読めないことについて」の日記を読んだ友人に謝られてしまって、何を謝られたのかわからず、困ってしまった(←すでに空気読めてない)。
あの日記は、わたしの個人的な感想のようなもので、「ああ、わたしは、なんと空気が読めないのであろうか!」という驚きと違和感について考察してみただけで、特定の誰かを非難しようとかそういう意図で書いたわけではない。(言いたいことがあったら直接本人に言うなりメールするなりすればいいんだし、そもそも、わたしに他人を非難する資格なんて始めからないと思ってるので。)なんだかときどき気が合わない人がいるけど、それは仕方がないことだから、次善の策を考えよう、という方向性で書いたつもりだった。
気が合う人とでさえ、いつでもわかりあえるってわけではないんだし。
しかし、直接話すより文章にしたほうが伝えやすいような気がしてたんだけど、うーん、文章ってのも難しいもんだなあ。。。
わたしは、わたしの言葉の行間から気持ちを汲み取って欲しいんじゃなくて、書いた言葉はできるだけ文字通りに受け取ってもらいたいと思う。共感したり疑問を持ったりするのは、その上でしていただきたい。(でも読み方は強制できないんだよなあ!)
わたしにとって、言葉になってないこと(つまり空気)は、意識化されてないことなので、存在しないのと同じことなのだ。(そういう無意識的なことでも、絵になら描けるという言い方も一応できるんだけど、絵描きは、絵に描くことを通して無意識を意識化しているというだけのことだと思う。)
自分で意識化出来なかったことを、誰かに指摘されて自覚することは、とても面白い。
絵を描いたり文を書いたりして誰かに見てもらいたいと思うのは、このためだと思う。
でも、もともと意識化出来てなかったことについて、気づかいされても意味がない。
わたしにとってやさしさとは、ただ、相手を無視しないというだけのことで、それは気づかい(つまり推量にもとづいて考えを進めること)とは全く違う。
わたしはときどき他人の存在をド忘れすることがあって、やさしいとは言えないので、こういうと傲慢かもしれないけど、わたしは誰かに気づかいして欲しいんじゃない。
理解しあうために言う必要のあることははっきり言ってくれなきゃわからないし、言う必要がないなら何も言わなくていい。
すでに意識化されているのに、言わないと決めて飲み込んだ言葉については、飲み込んだ本人が責任をとればそれでいいんだと思うし、そのことで他の人間があれこれ推量をして悩んでも仕方がない。
冷たい考え方かなあ。まあ、わたしはそう思うというだけのことです。
とくに女子の世界ではまず通用しない考えなので、気をつけないと…。
でも気づかいって、ピッタリはまるとすごく気持ちいいものだし、わたし自身はもっと気づかいを心がけなきゃいけないなあとは思っております。