映画と絵画の境界線

きょうは、渋谷のアップリンクで行われた、短編フィルムの上映会に行った。
映画評論家で多摩美の先生でガンホ会の発起人、大久保賢一さんのプロデュース。
行く途中、渋谷駅前のスクランブル交差点で背後から前川さんに声をかけられた。目的地が同じとはいえ、大混雑の渋谷駅前でばったり、ってなんかすごい。

映画と絵画の境界線上にある作品、ということで、ほとんど停止してるようにみえるけど実はじわじわと動いていたり、カメラの位置がずーっと固定されてたり、物語がないもの、アニメ的な表現のもの、いろんなのがあって、それぞれすごーく面白かった。

前衛的な映像作品は美術館でよく見かけるが、映画とは別のものだと思ってた。
わたしは美術館で映像のコーナーがあると、素通りしてしまう場合が多い。
まあ映画も見ないし、映像のような時間的表現にほとんど興味がないこともあるが、美術館では絵のようにスクリーンが展示されていて(美しいのは確かだけど)、椅子がないから、じっくりみるには地べたに座り込んだりしなきゃいけないので困る。(絵だったらぼーっと同じのを何十分も眺めてたりするのにな。)

でも大久保さんは、こういう短編を映画館で上映したいと話されてて、ああそうか、こういうのもやっぱり映画の一種なのか、と思った。
大久保さんは「映画が映画館を出て美術館に進出している」という感覚のようだ。
サイレントの作品では、映写機の音がよく聞こえるのも面白かった。

映画の後は、大久保さんと音響家の森永康弘さんとのトークショー。
「音」を中心にこの世界を把握しようとしている人とは、同じ世界に暮らしていながら、まったく違ったパラレルワールドを見ているのだろうなと思う。
アルタミラの壁画の話が出て、うわ行ってみたいと思ったけど、公開されてないらしい。

わたしは、絵と映像の境界線ははっきりあると思っている。境界線のある場所は、人によって変わると思うけど。

自分の絵が具象だからかもしれないが、絵は、やっぱり基本的には、連続する時間のなかの大切な一瞬を永遠にとじ込めるために「切り取る」ものだと思う。
その時間が、現実の時間であっても、架空の(小説とか)の時間であっても。

なにかが最も素晴らしく見える瞬間の色や形を選び抜いて切り取ろうとしているのに、それが変化してしまったら切り取った意味がなくなってしまう。
映像から見たら絵は静止してるものに見えるかもしれないし、静止することも「動き」の一部ではある。

でも、切り取った絵は、動かないけど、動かないだけで、止まっているわけではない。だって絶対にそのあとで動き出したりはしないから。
さらにいえば、絵というのは写真とも違って完全に絵描きの脳の中で生まれた作り物なので、その前後の瞬間なんて初めからなかったかもしれないのだ。

絵は、人間が手で描くものだから、描くためには一定の時間が必要だし、一枚の絵の中には、絵描きが異なった時間に見たり考えたりしたものが混ざっている。
描かれたものをみるのは一瞬でできるから、絵画の中に動きを内包させることも可能だ。
一瞬で全体をみられない、絵巻物のような表現は、映像にかなり近い。壁画も、場合によってはそうかもしれない。
しかし、やっぱりそれは映像作家が描きたい動きとは違うような気がする。(絵巻物の時代には映像はなかったからくらべられないけど)

絵描きは絵を保存しておこうとするし、映像の人は動きを記録しようとしているし、一番大事なものも、作る動機も、目的も、もともとまったく違うんじゃないかと思う。
一人一人の人間の感覚の違いは、ここまで大きいのだ(小さいような気もするが)。
でも、一番大事ではなくても面白いものは面白いので、今日の上映を見られて良かった。

そのあと、大久保さんの奥様で、4月のソウル観光でもご一緒した京子さんや、大久保さん、森永さんやその大学のお仲間たちとみんなでまた飲みに行った。
前川さんとはここ4日のうち3日、一緒に飲んでる。。。感動のあまり、大久保さんに感想をわーわーとまくしたててしまった。。。

終電で帰宅したらFAXが届いてて「屋久島取材日程と注意事項」と書いてある。まったく心当たりがなく、たまげながらも、ええっ1/5出発!もうすぐじゃんとか、うーん飛行機イヤだなあとか、登山靴なんて持ってないよとかいちおう考えてから、よく見たら別の方に宛てたものだったので、ひと安心しましたとさ。