続・根本的な疑問

8日に書いた日記に、いくつか反響があったので、ちょっと驚いた。
ついひとこと意見を述べたくなってしまうテーマだったのかな。でもわたしとしては前にも書いたけれども解答がほしいわけじゃないのだ。
ただ、メールをくださった方が、それは人間には感性があるからだと言っていたのが気になった。

わたしは「感性」とかそういうもっともらしい言葉は嫌い。
そういう言葉を使っただけで、考えることをやめて、すべて理解してるような気分になりがちだと思うので。(それもまたひとつの感性なんだろうけど。)

人間は、美しいものを美しいと感じる感性をもっている。
美しさに限らず、怒り、恐怖、不安、爽快、妬み、喜び、悲しみ、いろいろだ。(美しさはいろんな感情や何かをみんな含むので、ちょっと特別な気もする)
感性は、個人差もあれば、鋭くなったり鈍くなったりもする、不安定なものだ。
その対象は自然や環境だったり、その一部である人間だったり、作品だったりする。

とりあえずここでは人間が作った作品に対する感性について考えることにすると、なんでそんなものを持っているかは、例えば自然科学で解明できるのかも知れないし、また、芸術家は人々が無意識的に感じているものを具体化する力を持つ人間なので、人々もその作品に感応できるのだという考え方もあるのかも知れない。

また、そうやって感応したものを、代償を払ってまで手に入れようとするのはなぜか。
刺激によって脳を発達させるためといっても、なんで脳は発達しなきゃいけないのか。
それが人間の業だから病だからといって、哀れんで済ませていいのか。

それに、かならずしも、感性は、より良いものに反応するというわけでもない。

なぜか、っていうよりなんかもう、ただ、すげえなあー!と思ってしまう。
そんな感性なんていうわけわからんものを抱えている人間ってなんなのだろうか。
でも、学者ではなく絵描きであるわたしの場合、考えていってもきりがないので、どこかで考えを中断して、もやもやを抱えていくことを選択するよりほかにない。それもひとつの道だと思う。

それは感性だよ、というところで考えをやめるのも、それじゃあ感性ってなんなの、って疑問を持ったところでやめるのも、その感性を持ってる人間ってなによ、って考える途中でやめるのも、結局やめてしまうのであれば、同じと言えば同じなのかもしれないけど。。。

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先日わたしが言いたかったのは、ただ、作品というものが人間にとって現実に必要とされている、という前提にたつことができれば、自分にもそれなりの役割があると自信をもって生きていける。
それができないとちょっとしんどい。ということです。

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で、感性といえば…、
わたしが学生時代に専攻していた美学は、哲学の一分野で、まず最初に習ったのは、「美学とは、何が美しいかという学問ではなく、人間が何かを美しいと感じたり感じなかったりする、感性についての学問、つまり感性学である」という定義だった。これはもちろん美に限らず、すべての感覚におきかえられる。

大学は何かを習うところではなく勝手に好きなことを研究するところなので、それ以上のことはなんだかよくわからないまま、現在に至っている。
もっと本を読めば分かることもあるだろうが、わたしは本で知るより自分で考えたい。
というか、そのまま、不思議だなあと思いつづけて、もやもやにしておきたい。

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ちなみに、わたしが大学で習ったのはそのことと、図書館の使い方と、もう一つ、「ムンクの叫びのまん中の人物は、自分で叫んでいるのではなく、空から叫び声が聞こえて、耳をふさいでイヤー、ヤメテー!といっているのだ」ということだけ。(ムンク本人がそう書いてるのだそうだ。作者が言ったからってその通りだとはかぎらないわけだが、自分で叫ぶより空から聞こえてるほうが、病はより深い。)

わたしは、たしか高校生のころに、ムンクの画集をみて貧血を起こして、新宿の紀伊国屋の店頭でぶっ倒れそうになったことがある。
そのとき見たのが「叫び」の線描版。モノクロのぐにゃぐにゃした線の嫌な絵で、その後一度も見てないけれども、印象が強くて、すごく影響を受けてるなと思う。わたしの絵も線が主体なので、今も絵を描きながら、よくあの絵を思い出している。