勝手な解釈

セツモードに行ってたころ、わたしは絵描きになりたいとは思っていなくて、真面目に通ってなかったし、意識が低すぎてろくな絵が描けなかったのだけど、いまにして思えば、学んだこともあった。

デッサンの授業のモデルも学生だったから、いろんな変わったポーズをしてくれた。それをいろんな角度から見て、紙にうつすと、ほんとにとんでもない形になる。
セツ先生は、いつも学生たちよりもずっと楽しそうにデッサンしていて、頭で考えたものには限界があり、実際に目で見たものから発見することは、無限で、ほんとうに面白いというようなことを言っていた。
よく理解できないまま、なるほどそういうものかもなあ…と思って心に刻みこんだが、わたしは、まったく逆に、実際に見たものでなくても、多少デッサンが狂っていても、人間というのは、手足と頭がついていれば、人間に見えるものなのだなあとも思った。

デッサンが狂うのが怖くて絵が描けなくなっていたので、ちょっと勇気が出た。怖がっているとつい頭で考えてしまうし、自分で限界をつくってしまうことになる。

そんな勝手な解釈が、じつはいまのわたしの絵の描き方の基本にもなっている。
わたしはスケッチもめったにしないし、目で見たものをそのまま描くことは少ない。
ジャングルにも鍾乳洞にも江戸時代にも行ったことがないし、実際に見たことがなくても描けなければ、小説の挿絵なんかできない。

かえって、実際に見たものは、その印象が強すぎて引きずられてしまうので、しばらく頭のどこかに眠らせておいて、絵が浮かんでくるまで気長に待つ。
感動したものであればあるほど、いったん冷静にならなければ描けなかったりする。
それで実際見たものと違ってしまったとしても、絵なんだから、まあいいかと思う。

もちろん、自分の目で見ることをおろそかにしているわけではなくて、ほんとうに印象が強かったものは、しばらく忘れてしまっていても、いつかなにかの拍子にふっと思い浮かんで、その世界に包まれるような感覚になる。
その感覚さえつかめたら、細かいところは資料やなにかを見て描いてしまう。

たとえばジャングルの絵も、ジャングルの絵であることにはさほど意味がなく、どこか別のところで感じた感覚を描いているのだろう。
少なくとも、わたしは絵を描くのにとくに想像力は使ってないつもり。
だからふだんからなるべくいろんなものを見ておきたい。特別なものじゃなくても、身のまわりのものでも、よく観察しておきたい。

セツ先生の言ってたのってこういうことかなあ…、なんて思ったりするけど、やっぱりちょっと違うかな。