感情表現ということ

このところ演劇的な表現をいろいろと目のあたりにして、感情表現ということについて考えている。役者さんたちが感情と向き合っていることと、自分のやっていることは、どこが同じでどこが違うのか。

たとえば自分自身が悲しかったり、悔しかったりしたときに、ストレートに絵にその感情をぶつけてしまうと、あとで恥ずかしくて見るのもイヤな作品ができあがってしまう。
すごく感動して夢中になって描いたものも、やっぱり面白くない。だから絵を描くときはわたしの場合は心をできるだけ揺らさないようにする。

かといって、感情抜きの頭でっかちな絵を描きたいわけでもなく、じゃあわたしがいつも描いているのはなんなのかと考えたら、それはどうも、感情が感情になる一歩手前の「驚き」というか、心が揺れることに対するとまどいのようなものなのではないかと思う。
怒りとか、悲しみとか、恐怖とか、喜びとかに分化するまえの何か。
だからそれが自分の感情といえるのかどうか、よくわからないし、それを伝えるために絵をかいてるわけじゃないけど、それが芯にあるのは確か。

反対に、ゼロから絵を描いていく中で、新しい感情がでてくることはあるだろうか?

描きはじめるときは、出来上がりのイメージがかすかにしかみえないので、すごく不安な気持ちで、手探りで進んでいく。
不安で、不安で、不安で、最後まで不安で、それでどこかで納得するか、あきらめる。
途中で、何か発見したり、面白いなと思ったりすることはあるのだけど、やっぱり、激情というようなものは起こらないように思う。
ただ最初から最後までずっとモヤモヤモヤモヤしている。

でも、そういうはっきりしないものを描いていくにしても、実際の生活のなかで起こった自分のいろんな感情は、押し殺すのではなく、揺れたものは揺れたものとして正直に認めていきたい。
認めたからといってそれが直接絵に反映されるわけでもないけど。
前は、感情をその場でだだもれにしたらもったいない、損をしてしまうような気がしていたけど、わたしが絵に描くのはその場その場の感情とは別のものだから、けちけちしなくていいんだな。

わたしはどっちかといえば鈍感な人間だと思う。
でも先月くらいからなんだかセンシティブになっていて、妙に心が揺れていた。これといって大きな事件があったわけでもないのに、ささいなことでも気がそぞろになってしまって、まったく絵が描けなかった。(仕事の絵なら、文章に沿って描いていくから大丈夫。ちゃんと仕事はしてます)

そういう心が揺れたときの、具体的な事実は、わりとすぐに忘れてしまうけど、まわりの空気だとか、匂いだとか、そういうものを、いつかふっと思い出して、すこしずつ絵の中に紛れ込ませていくのかもしれない。これまでも、たぶんそうだった。

…と、自堕落にすごしてしまった時間を正当化してみる春の日であった。