伝えるということ

友人Kは秋に芝居を打つことになり、今は脚本を書いている。
話し相手がいると考えがまとまりやすいらしく、昨晩からうちに来て、お菓子など食べながら、ああでもないこうでもないとやっていて、よくわからないけれど、なにかタタキ台的なものがまとまったようだ。
友人Kは頭が良いので、話を複雑にしすぎたり、逆に説明を省略しすぎたりする傾向があるのだが、わたしはものわかりが良くないので、わたしに理解できるように書くとちょうど良くなる。

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わたしにとって自己主張なり表現をするのはごくあたりまえのことで、そのことで他人を傷つけてはいけないとかクヨクヨ考えることは少ないし、我慢なんかしない。
自己主張が強いと、この国では悪いことのように言われるが、気がついたらこの性格だったんだもの。まあ、自分が良い性格だなんて思っていないけどさ。鈍感だし。でもわかりやすいでしょ。

それでも、発信するのはけっこう恐ろしいことで、恥ずかしいとか、どうせ言っても無駄だとか、わたしには才能がないからとか、認められなかったら嫌だとか、そりゃあいろいろあるけれど、そんなに自意識過剰に身構えるほど、世間はわたしのことを気にかけてはいないものなのだ。
うまくコミュニケーションできるかはともかく、結局黙っていられないのだからしかたない。

自己主張することは、コミュニケーションを放棄することではない。伝えたいことを作品という形にまとめて世に問うこともコミュニケーションの一形態だと思っている。
わたしの場合は絵だから、言葉に変換できるようなメッセージがあるわけではないんだけど、主張するにもコツがあって、まず自分が何を言いたいか自分なりに整理しなければならないし、効果的に伝えるにはいろいろテクニックを洗練していく必要があって、それで日々試行錯誤しているのだ。

最近思うのだけど、主張できるということもひとつの才能で、この才能がない人もたくさんいるのだ。
主張しなければまわりと対立する危険もないが、それはコミュニケーションが取れているのとは違う。傷つけることを怖がる時は、自分が傷つくのを怖がってるので、主張もしないが人の意見も上手に聞けない。そんなふうにして表面だけ仲良くしても得るものもないし無意味なんじゃないかと思うし、たまに何か言いたいことができても、ふだんそれを伝える訓練をしてない人には、相当難しいだろう。仕事の伝達事項はテキパキこなせたとしても、心の中心に近ければ近いものほど、伝えるのも難しくなる。

(心の壁の開け閉めをするのは難しくて、時には閉める必要もあるのに、わたしなどは案外あけっぱなしなので、会社勤めのころなどは、つねに周りに人がいるのが辛くて心が休まらず、以後しばらくひきこもりになった。今お部屋にこもっているのは、単に出歩くのがめんどうだからだけど、部屋の壁があると気分がラクだ。)

わたしは主張するタイプなので、今まで、主張しないタイプの人のことはほぼ眼中に入らないというか、なかなか興味が持てなかったのだけど、そういう人が自分の考えを持っていないかというとそうでもなく、ただ、伝えようという意思を持っていないだけだったりするので、根気よく話を聞くと面白いこともある。立ち位置が違えば考え方も違ってくるし、他人の考えがちょっとでも聞けると面白い。
でもそのお宝にたどり着くためには、こちらが心を開いておくだけではだめで、傷つけないように気遣いながら、こちらから踏み込んで掘り起こしていかないとだめなのだ。
面倒くさいし、拒否されることもあるし、寝た子を起こすような危険もあるけど。

ただ、主張しないタイプの人も、いつか誰かがわかってくれるなんて待っていても、誰もこない可能性もあるよ。自分は自分で思っているほど特別な存在ではないし、もともとお宝を持ってないかもしれないし。愛とか誠意とか以心伝心だけで満足できるならいいけど、それだけでは社会性は持てない。(いや、わたしも社会性はないんだけどさ。)

わたしは他人同士が完全にわかりあえるなんて思わないし、わかってもらうために生きてるわけでもない。
わかってもらうということは相手の考えを変えさせることでもない。
でも、まったくわかりあえないわけでもない。
言っても無駄というのは、自分をおとしめる上に相手をバカにした考え方で、聞くかどうかは相手が決めることなので、とりあえず言ってみればいいし、一度や二度、うまく伝えられなかったからって、伝えることをあきらめるべきではないと思う。