月別アーカイブ: 2010年8月

前回の日記の補足

前回の日記を読んだ母から、身内の悪口を書くなというメールがきて、びっくりした。

頭がカオスであることの面白さと、アウトプットの切実さについて書いたつもりで、祖母のことを書くのは目的ではなかったし、悪口を書いたつもりも全くないんだけど。
一度アウトプットしたものに、言い訳をするみたいで面倒くさいし、わたしの祖母がどんな人かなんて、他人にとってはどうでもいいことだと思うけど、親戚とかが読んでるかもしれないので、説明不足と思われる部分を補足します。

わたしが考える「悪い性格」の定義は、嫌なものは嫌、やりたくないことはやらない、そういう自分に嘘をつかない、我慢をしない、という性格。(いじめや犯罪は、性格の悪さというよりは他人との関係上の心の弱さや病気だと思う)
「良い性格」は、疑う事をせずに素直に物事を受けとめ、物事を荒立てない性格。たとえばテレビのコメンテーターの意見を丸呑みしちゃうような、善良さ。
わたしがそんな良い性格だったら、今ごろこんな不安定な絵描きになんかなってねーよ。
年がら年中、目に映るすべてのものを片っ端から疑ってかかってるんだから。。。
でもわたしは性格の良い人には面白みがないと思うので、眼中に入ってこないから、そういう人とぶつかったりはしない。ケンカする理由もないし、こっちが不利だし。

何かを考えることや、創作することは、まず疑問をもつところからはじまると思う。だから性格が悪いこと自体は悪だとは思わない。良いことだとも思わないけど。

わたしは祖母のことは、正直言って好きではない。でも嫌いでもない。特別なことはなにもない、どこにでもいそうな、ふつうの老人だと思う。
子供の頃には数えるほどしか会ったことがなかったので、どういう人なのかよく知らなかったし、可愛がってもらった記憶もない。
実家に来たときはわたしもすでに大人で、老人というものが珍しくて興味を持ったけど、祖母は尊敬できるような人格者ではなかったし、教えてもらうようなこともなかった。
血のつながりがあるというだけの理由で人を好きになることは、わたしにはできない。
かといって、嫌いになるほど深いかかわりを持ったわけでもなかった。

でも、どうしようもなく、持って生まれた性格に似たところがあるなあとは思った。
だから慣れない土地で、毎日毎日テレビ見たり編み物したりするだけの祖母に同情した。
でも祖母はそれが同情されるようなこととは夢にも思ってなかっただろうし、孫がどう思っているかなんて気にもしてなかったと思う。
たぶん、そういうところが一番似ている。あまり他人を必要としない性格が。(祖母にはそういう分析をする力はないので、わたしが勝手にそう解釈しただけだけど)
冷たい性格みたいだけど、自分の世界は完結してるので、本人は不幸だとは思ってない。こういうところが、わたしと母が一番似ていないところだとも思う。
母は、優しくて、いつもわたしや家族のことを心配しすぎなくらい心配しているが、性格が良いか悪いかでは割り切れないところがあって、妙に器が大きい、不思議な人だ。

でも、わたしがあまり他人を必要としないからといって、全く必要がないわけではなく、わたしにはまだ先の人生があるんだから、外の世界とどうつながっていけばいいか、今までもずっと考えてきたしこれからも考えないといけないな、って話だったんだけど。
文章書くのはやっぱりむずかしいな(絵なら多少過激でもスルーしてもらえるのに)。
こんなことは、そのまま書かない方が世間体がいいのはわかってるんだけど、そういう無難なつながり方をしたいわけでもないのよね。

あたまがカオス

さいきんもうあたまがカオスでカオスで。。。
もともと言語能力が低いし、頭の中を整理したり、時系列を把握するのも苦手なんだけど、ふた月ほど、日記(やメール)を書くのをさぼってたら、ますます頭がカオスになって、どこから手をつけたら上手にほどけるものやら、わからなくなってしまった。
ツイッターも、つぶやきが、というか人々が、ただの文字にしか見えなくなってきた。
それにしても、日記を書かないですごす日々は、ほんとにもう気楽で気楽で、いちいち出来事を言葉に変換するのがこんなに精神的な負担になってたとは思わなかった。

いろんなことが言葉にならないままワッとそこらじゅうにある感じはエキサイティングで、このカオスが、ある意味ではいちばんわたしらしい部分だとも思うのだけど、たまには、感じたことを日記でもなんでもいいから言語化していかないと、このままでは頭の中が完全にガラパゴス化してしまうかもしれない。

友人Kはちょっと前に「頭の中の本棚がいっぱいになってこれ以上本が読めない。でも頭の中のDVDラックにはまだ余裕があるから、最近は映画ばかり見ている」と言っていたのだったが、しばらくしたら、今度は、「頭の中の古典のコーナーに空きがあったので最近は古典を楽しく読んでいる」と言う。
彼女の頭の中には本棚というより本屋さんか図書館があって、脳みそのしわしわのひとつひとつがジュンク堂みたいな重厚な本棚になってるのだろう。

わたしの頭の中には、本専用の棚ははじめからない。
そのかわり、頭の中には、ぽっかりと、鍾乳洞みたいな真っ暗闇のスペースがある。
そこに一応岩棚もあるけど、湿気が多いので本を置いておくにはあまり適していないのだ。

実家にいる88歳の祖母は何年か前からだんだん魂が抜けていってる感じで、重大な病気はないけれど、この春頃からは完全に要介護の人になってしまった。
両親がかなり大変そうなので、役には立てないけど、なるべく実家に顔を出そうと思う。

祖母は、15年前に祖父が死んだ後、函館から縁もゆかりもない千葉にひきとられてきて、その時点で、社会的な役割も、世界とのつながりもまったくゼロになってしまった。
もともと頭は悪くないけど、不器用で、性格が悪い(そのあたり血のつながりを感じる)。
でも、性格の悪さをカバーするような教育やテクニックも身につけていないので、変に卑屈になって、びくびくして、ますます性格がねじれているように見えてしまう。年齢のせいもあるかもしれないけど、それをうまく隠すこともできなくなっていた。(と言っても、悪意はないし、なにか悪いことができるほどの力も持っていない)

祖父が死ぬまでは、自分の小さな世界で、自分の好きなように生きてきたので、誰かに何かを頼むとか、自分の思ったことを言葉にして伝える必要もなかったんだと思う。
おそらくもう何十年もまともに文章を書いたり読んだりしていないはずだし、今はもうぼんやりしてしまっているけど、ボケるずっと前から、あまり頭を使っていない。

だからこの人の中ではいろんな記憶がカオスなまま、無自覚なままになっている。
幼い頃に養女に出されたり、赤ん坊を何人も亡くしたり、戦争で樺太から逃げ帰ったり、昔はよくある事だったのかもしれないけど、今なら信じられない酷い目にあってるのに、自分が可哀想なのだと気づいてないし、誰かに優しい言葉をかけてもらったこともない。

父や母に身の回りの世話をしてもらっても、素直に受け入れることができない。
ボケる前には辛い思い出話を何度も繰り返してたから、やっぱり傷ついていたのだろうが、話の整合性がないし、客観性もないし、時系列も変なので、聞いててけっこう苦痛だった。
この人を見てると、コミュニケーション不全は昔からあった問題なんだと思う。
もともとカオスな性格の人が、カオスなまま年をとるとこんな最後をむかえるのか。

いったい、わたしとこの人はどこがどう違うんだろうと思う。
実家は千葉の片田舎で不便なところではあるけど、祖母自身、外の世界におびえていて、家のまわりから自力で出て行こうとしなかったし、一種の引きこもりだったと思う。
でもふしぎと生命力だけは残っていた。その生命力が、目に見えて消えていく。こうやって人は死んでいくのか。この人の人生はなんだったんだと考えてしまう。

それに、世界とつながるってどういうことなんだろう。

で、ああ、時間は無限ではないのだなあ、カオスはあまりよろしくないなあと、絵本のことをもう一度ちゃんと考えようと思った(何度も忘れては思い出している)。
ひとつアイディアがあったので、友人Kに入れ知恵してもらったら、それを元にあまりにも鮮やかにお話を作ってくれて、かえって戸惑ってしまったりしつつ、やっと、なんとなくあらすじらしきものがみえてきた。ここまで3年くらいかかった。

もともと絵本に興味がないのに、なぜ一枚絵でなく絵本にするのかというのもみえてきた。
そこで、昨日、編集さんに、ここまではできるんです、でもここからが大変なんです、岩清水さんはカオスなんで、この先は言葉じゃなくて絵で考えてくださいと言われた。
おおお、、、やっぱりそうですか。。。
絵というのも、言葉とは違うけど、けしてカオスではないので、すごく面倒くさい。
でもこのカオスの中から何かビビッドなものを取り出せるのならば、わたしの場合それは絵だし、できるだけ取り出して形にしていかなきゃなとは思う。