イラスト」カテゴリーアーカイブ

プリミティブな感覚

最近、過去に描いたイラストの再使用のお仕事が何件かあった。
古いものは今から見るとやはり直したい部分が多く、ブラッシュアップの作業は欠かせないが、あらためて自分の作品と向き合うことが出来る、いい機会になった。

お仕事で描いているうちにどんどん線の感じが変わっていったのがわかる。
昔の絵は、本当にへたくそだけれど、独特の土臭さがあって、自分で言うのもなんだがパワフルだ。そこらへんの感覚を思い出せて良かった。

メンテナンス

いつプリントできなくなるかとドキドキしながら仕事するのはイヤだし、さっさと直してしまいたかったので、プリンタを丸ごとボストンバッグに入れて、朝イチで新宿にあるメーカーの修理センターに運んでいった。
ちょっと古めのA3用の機種だから、大きいわ重たいわで、脇腹の筋肉がつりそうになった。

でも帰りは無印でキャリーバッグ(特大)を買ってみたらサイズもピッタリで、楽ちんだった。つい調子に乗ってダイコンとかキャベツも買ったらバランスが崩れてヨロヨロしたけど。

修理そのものは3時間くらいで終わった。

キャリーバッグは、来月NYに行くのでちょうど買うつもりだったし、頑丈で良かった。新しいプリンタも欲しいんだけど、それはまた今度だなー。

ああもう…

プリンタというのは、どうして、一番壊れてほしくないときに壊れるんだろうか。いや、正確には壊れたわけではなく、廃インクタンクが満杯になりかけてるだけなので、どうにか使えてはいるのだけれど、早めにメンテナンスに出さなきゃいけない…。

照れるぜ

妹が、「お姉ちゃんのイラストの紙袋をふだん使いにしてる人を見た!」とメールで報告してくれた。
ケーキ屋さんの紙袋。その人は、気に入ってくれたのかなあ。
まあ、なんとなく使ってみたってだけかもしれないけど…。
でももし遭遇したらけっこうドギマギしちゃうだろうな。

展示ということ

二日続けてお出かけだ。しかも青梅まで。遠かったー。

『アレぢごく』~青いオープンカーに壷がはねられればいいんじゃない?~ というのを見る。(青梅織物工業共同組合敷地内 BOX KI-O-KU、SAKURA FACTORY/ART SPACE petal fugal)
現代アートの作家さん10名による展示。
タイトルのセンスとかから「美大っぽいノリだったら嫌かも」と懸念していたが、楽しめた。わたしは、他人の作品はわからないものだと思うので作品についてあれこれ言うつもりはないが、今日はたまたま「面白い展覧会とはどんなものか?」という内容のシンポジウムもやっていた。
こういう催しはアートの方ではよくあるらしいんだけど、わたしにはもの珍しく、興味深かった。イラストとアートとは地続きだし、やっぱり、同年代の作家さんとは、置かれた状況も抱えてる問題も似たようなところがあるようなのだ。

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シンポジウムのパネリストは展覧会を企画したり評論したりする側の人が多く、既成概念を打ち破ることが出来ていれば、作品そのものはいらないという発言もあった。
知的刺激を追求していけばそうなるだろう。結局は言葉の世界だということだろうか。

でも、その考え方には、作品の持つ雰囲気なり情感なり「よくわからないもの」が抜け落ちている。解説文を一所懸命に書こうとしても、絶対に書きあらわせないもの。そういうものを表現しようとしているのは、ちゃんと伝わってたと思うんだけどなあ。

そんなこむずかしいことを考えずストレートに情感とかを追求できるのがイラストレーションの良い点だ。イラストレーションとは、作品の「華」とか「魅力」に特化したものと言えるかも知れない。そうやって出てきたイメージが一気に理屈をとび越えることだってある。

現代アートだって、人の心を動かす何かがなければならないと思うのだけど違うのかな?
作家は、作ることによって考えることができる。でも、考えるためだけに作っているのだろうか?アートであれイラストであれ作品を作ることに理由などなく、そうとしかできないから作るのだ。
ようするに自然物と同じなので、作品はいらないと言われても、できてしまったものは仕方がない。できの悪いものは淘汰されていくだけだ。

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作家さんの口からエンターテイメントって言葉が出たのにはちょっと驚いた。まあ気になるよね…。

でも、近所のおばあちゃんが現代アートを見て理解できないのは当然で、たいていの人は、知的刺激を受けたいのではなく、感情を揺さぶられたいのだ。
しかし、大きいとか寒いとか眩しいとか、ほんのささいなことでも、動く時には心は動くものだし、美術の教育を受けてないから現代アートを見ても心が動かないなんてはずはない。
つまり現代アートはわからないものだという思い込み(=既成概念)が厄介なんだろう。

でも、知識を持たない人の勘は意外に鋭かったりして、けっして侮れないものだ。
自己アピールの得手不得手や、メディアの情報による偏りはどうしようもなくあるが、大勢の人が支持するものには、やはりそれなりに良い部分があるのではないか。

感情ってそれくらい重要なものなんだと思う。感情を揺さぶられる気持ちよさってある。

そもそも、教育なんか受けなくたって、必要だったら人は自分で学習できるものだ。
読み書きができれば、ある考え方に巡り会うことも、必要かどうかを判断することもできる。

既成概念から解放される自由は素晴らしいけど、不自由なままでいたい人もたくさんいる。
アートが必要な人と必要でない人がいること自体はどうすることもできない。
その人にとってその時に必要でなければ、面白いことに出会っても気がつかない。理解する人は理解するし、理解しない人は理解しないというだけのことだ。
それに、理解できたと思っていても、本当に理解してるかなんて誰にもわからない。だから作る者は歩み寄らなくていいし、見る者は卑屈にならなくていい。

エンターテイメントってその人の資質の問題なのではないかと思う。
無理なものは無理。エンターテイメントのために努力できるならそれもまた資質だし。
(それにしても、理解するってどういうことだろう。理解したいという気持ちはなんだろう。世界中のものを見尽くし、理解し尽くそうとしても不可能なのに。)

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アートはある場所に展示することが前提だし、展示することが作品そのものになっていることもある。(今回の会場は古い織物工場を利用していて、空間自体が面白かった。)
アート(=試みること)において、展示法または企画は命のようなものだろうし、アートの作家さんの関心はそこに向かいやすいようだ。

イラストレーターが売り込みに知恵をしぼるように、アーティストは企画に頭を悩ませるわけだ。(はっきり言って、イラストレーターにとっては、展示も売り込みの一環のようなものだし、イラストレーター同士で集まって話をすると、作品がどうこうというより、どうしたら売れるかとか、ギャラがどうとか、ケチくさい話になりがちで、役にはたつけど正直つまらなかったりする。)

実際に、展覧会などに行って良かったと思えるのは企画が面白いときだったりする。
企画がつまらないと、いくら質の良い作品が飾られていてもすべて台なしになってしまう。
そういう意味でも、作品と企画とは完全に分離はできないけれど本来は別のものだと思う。

じつは、作品そのものには社会性も(あってもいいけど)必要ではないんじゃないかと思う。
プレゼンによってようやく現実的な社会やお金とからむのだと思う。

作品自体にも展示にもそれぞれ意味があると考えなければグループ展って難しくないかな。
これはイラスト描きにとっては明白なことのように思うが、アートは複雑だな。

今日のシンポジウムではそこらへんがとっちらかってる感じがした。ここをあいまいにしているとせっかく人数があつまってもゆるいくくりしかできない。
グループ展と個展だったら個展の方が面白いという話も出ていたが、そりゃあそうなるだろう。
でも現代アートのグループ展って、企画いかんによってはものすごい可能性がありそうな感じはする。

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イラストレーションは、はじめから社会的なもので、発注を受けて描くという制約、印刷等で頒布されるという制約があるが、展示したくなかったらしなくても良いという点では、非常に自由でもある。(そのかわり、量や質感や大きさやなにかで圧倒することは難しい。)
アート系の学校を出ている人は、慣れてるのか、さも当然のように作品を展示するけれど、作品を作ることと展示することは、わたしにとっては全然別のことだ。
展示するために作品をつくるのってしんどい…。

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で、なにが言いたかったかというと、グループ展の準備が進まないよー、ということと、わたしはイラストレーターでいいや、ということ。
とはいえ、わたしもここのところ企画力の必要性はちょっと感じているのだ。
展示うんぬんとは別の次元で、今までちょっと受け身すぎたかなあと。
あー理屈こねすぎたかな。頭でっかちかな。どうも失礼しました。

暮らしの哲学

池田晶子さんが亡くなられて、そろそろ3ヶ月がたつけれども、6月に毎日新聞社から出る「暮らしの哲学」の単行本に、連載時の挿絵を1点だけ載せていただけることになった。
雑誌の挿絵は、たいてい、一度使われたらそれきりになってしまうものなので、書籍の形で残していただけるのはとてもありがたいことだ。
あの絵は、絵としてはそんなにうまくないのだけど、自分でも気に入っていて、描きながらなぜか「考える時間」の最初の回に戻るような感じがしていた。

最後の一箱

フォトショップCS2を買ってきた。CS3への無償アップグレードがついてたから。
イラストレーター、ドリームウィーバーなどもまとめて。
レジに持っていったら店員さんに「これが最後の一箱です!」と言われた。
はーはー(←鼻息が荒い)。痛たた…

かくれんぼくん

子供のころ、「かくれんぼくん」というメンディングテープ(今も販売中)のパッケージに描かれた、両手で顔を隠して座る子供のイラストが、心の底から怖かった。

場末の、古ぼけた文房具屋さんの入り口に父と母を残して、幼いわたしが、一人で薄暗い店の中を奥へ奥へと入っていくと、そこには「かくれんぼくん」が!…キャーッ!!

というイメージがあって、夢だったのかもしれないけど、今でもやっぱり怖いのだ。

ブルーハーツ

今日からライブドアの携帯サイトで待ち受け画像が無料で配信されます(毎週更新)。
前川麻子さんのケータイ小説「ブルーハーツ」の挿絵になってます。前川さんの小説はいろいろ読んでるけど、これはほんとに面白いです!なんかもう、ハートがきゅんとなっちゃうよ。

小説を読まないと画像も見られないようになっているみたいです。連動企画ブログ「ブルーハーツ」とあわせてぜひ読んでみてください。

わたしの5年もののJフォン(ボーダフォンではない)は、待ち受けの設定すらできないほど古く、さっき試しに見てみたら、表示はできたけど、トリミングされてすんごい小さい画像になってた。いいかげんに買い替えねば。

第1話はエプロン姿の人物を描きました。男のエプロン姿はカッコイイです。
ついでにブルーハーツの曲をひさしぶりに聴いてみました。流行ってたころはとくに好きではなかったけど、なつかしかったです。

気合い入れ

ホームページでもお知らせしてますが、6/19~24に、原宿のソーン・ツリーギャラリーでのグループ展に参加します。(ちなみに6/19はわたしの誕生日…。)
大人数のグループ展だから、ひとりあたりの作品は少ないのだが、オリジナルTシャツ販売もあるので、その準備も考えると早めに制作しなければ。

クリ8プレゼンツ DAZZLE+thorn tree gallery 合同企画展 『ジャングル』
6月19日(火)~24日(日)12:00~19:00(最終日は18:00まで)
ギャラリー・ダズル/ソーン・ツリーギャラリー

【ギャラリー・ダズル】
川窪美里/征矢朧/松竹司/佐川康子/妃呂麿/3rdeye/西島尚美/高橋彩/しんたに道子/JUN OSON/沼田月光/小塚類子/伊藤ちづる/matsu/椎木綾子/すがのぶひこ/内田文武

【ソーン・ツリー ギャラリー】
くぼたたま/山本恵美/橋本ポンセ/佐々木一澄/瀬知エリカ/岡村透子/カイズユカ/水野夏/木暮奈津子/山崎美帆/しまみらい/岩清水さやか/おおさわゆき/タナベユミコ/深川行敏

去年の個展ではアクリル・ペインティングの作品ばかりだったので、今回は、PCを使って、でもいつもみたいなA4におさまるちっちゃい絵じゃなくて、比較的大きなものを描いてみようという目論みなのだが、はたしてうまくいくのかねえ。
サイズが大きいとデータが重くなるし、プリントや展示法をどうするかも問題。プリントにもけっこうコストがかかるのだけど、原画じゃないからいちおう販売もします。

描きたい絵はすでに頭の中にあるので、あとは気合い!

純粋挿絵

目的がなくなったまま残された階段を「純粋階段」という。
挿絵はその定義から言っても、何らかの目的のために描くものだけども、
雑誌やなにかにちょこっと掲載されたあとに残された、目的がなくなってしまった挿絵のことは、「純粋挿絵」と呼べるだろうか。

お別れ

「暮らしの哲学」担当の毎日新聞社Nさん、Tさんとお食事。ビールを飲みながらしんみり。
あまりに潔い終わり方だったので、気持ちの踏ん切りをつけるのが難しい。
最終回の文章は読み返すととても力強くて、もっと明るい絵を描けばよかったなとも思った。
でも池田晶子さんの挿絵をすることができてほんとうに幸せだった。
「考える日々」のシリーズ3冊をいただいた。帯に「元気を出せ!」と書いてある。
…まったくだ。明日からまた闘いだな。わたしの絵もまた変わっていくだろう。

考える日々

考える日々

    • 作者: 池田晶子
    • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
    • 発売日: 1998/12/01
  • メディア: 単行本

考える日々〈2〉

考える日々〈2〉

    • 作者: 池田晶子
    • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
    • 発売日: 1999/12/01
  • メディア: 単行本

考える日々〈3〉

考える日々〈3〉

    • 作者: 池田晶子
    • 出版社/メーカー: 毎日新聞社
    • 発売日: 2000/12/01
  • メディア: 単行本

池田晶子さんのこと

文筆家の池田晶子さんが亡くなられた。
毎日中学生新聞の「考える時間」と、サンデー毎日の「暮らしの哲学」で、1年半の間、毎週挿絵を描かせていただいていた。
まったく偶然だが、池田さんはわたしと同じ大学の哲学科の先輩にあたり、それに、池田さんといえば「14歳」のための本が著名だけれども、わたしが14歳のときにちょうど池田さんが連載開始時のわたしの年齢くらいだったということもあって、勝手に縁のようなものを感じていた。

とつぜん2週連続で休載になったが、病気のことも知らず、亡くなるなんて思わなかった。
でも、呆然とするのと同時に、なんとなく腑に落ちたような感じもあった。

***

「考える時間」の文章は、どのテーマも冴えていて、透明な宝石みたいだった。
挿絵は、文章によって描かせていただくものである。
いい文章ならいい絵が描けるわけでもないが「考える時間」はわたしの代表作だと思っている。

毎中が休刊になって掲載誌がサンデー毎日に移ると、死や老いについての文が多くなった。
わたしももう30代だけれど、そういったテーマはまだ実感としては遠くて、ほんとうに難しくて、わたしが挿絵を描いていていいのかなと思うこともあった。
わたしが池田さんの年齢になったときどう考えるのだろうかと考えさせられたりもした。

池田さんには一度もお会いすることができなかったが、毎週挿絵を描くことで、わたし自身と対話する貴重な時間を持つことができた。

もしお会いしたとしても、こちらから言いたいことなど何もなかった。
ただ、絵描きとして、一度、ご本人のお顔を拝見したかった。
わたしは優しくないので人が死んだから悲しいという感覚はよくわからない。
ましてや、死はわからないものだから怖くない、年をとるのは面白いことだとくり返しくり返し書いていらした池田さんのことなのだから、悲しくはない。
でも涙が出てきて止まらなくなってしまって自分ですごくびっくりした。

池田晶子さん、ほんとうにありがとうございました。

動揺…

昨日のパーティに来て下さった、イラストの仕事を始めたばかりという方に、こんど作品ファイルを見てくださいなんて言われて、わたしは、正直、うろたえた。まだ、わたしも下っぱですから…。

他のイラストレーターさんの作品集を見るのは面白いけど、プロの作品なら、漠然とすごいなあとか好きとか嫌いとか感じるだけで、わたしには批評はできない。

絵でも本でも音楽でも舞台でも、作品=作者の世界観だと思っているので、こまかい技術的なことをあれこれ言っても仕方ないし、世界観が違うなら、違うことを認めて共存していくしかないのではないかと。

それに、世界観の独自性こそが売りになるので、同業者の意見を聞くより、他業種の人からのアドバイスを受けたほうがいいというのがわたしの考えです。

それに感じたことを言葉に変換するのは苦手なもので…。ゴメンナサイ。

名刺コレクター

用事があって銀座に出たので、伊東屋によってザ・チョイス大賞展を見た。80年代生まれが多いなあ…。そりゃそうだよな…。

それからイラ通展の後期(参加してませんが)のオープニングパーティへ。
イラストレーターの名刺はみんなとっても素敵なので、またたくさん集められてうれしい。 会うたびに違う名刺の方もいるし。

で、2次会へGO!
今日もいろいろと耳寄りなお話を聞けてラッキーだった。