雑記帳」カテゴリーアーカイブ

ギックリ

ぬぬぬ認めたくないが、これはやはりギックリ腰か、、、ッ

きのう葛西臨海公園に遊びに行き、さんざん遊んで、帰りの電車で最寄り駅について、さ、荷物を持とうかな、とかがんだ瞬間ガツンときた。
とりあえず電車からは降りられたしどうにか家までたどり着いたけど、、、。

ご先祖?

むかし洞窟に壁画とか描いてた人たちは、昼でも暗い場所だから焚き火とかたいまつの灯りをたよりに作業してたのだろう。
だとすれば昼でも夜でも関係なく描けるってことだから、たぶん原始時代にも体内時計が壊れてた人はいたんだろうなー。。。
超隔世遺伝?

んんん?

最寄りのスーパーは品揃えは少ないけど安いので、今日も買いものに行った。
それにしても安すぎないかと思ってレシートをよく見たら、値段がめちゃくちゃで、店頭の表示価格とぜんぜん違う。
おおむね安くなってたからいいけど、、、特売日でもないのにおかしいなあ〜

汗だくで引っ越し

千葉に引っ越しました。
厳しい戦いだった。この一週間で壮絶な量の汗をかいた!!
しかしこんなに荷物が多かったとは。。。荷造りしてみてびっくり。わたしはたぶん天才的に収納がうまいんだと思う。
昨日荷物を運び出して、今日受け取りだったので、昨日の晩はラクーアに泊まった。
温泉はそこそこだったけど、このところ足がむくんでむくんでしかたがなかったので、リクライニングシートで足を上げて眠れたのは良かったかな。
でもまだシーリングライトが無いので、とりあえずバルサン焚いて、今晩は実家へ避難。

汗をかくので首に赤いガーゼのマフラーを巻き、ツバ広の帽子をかぶり黒っぽいカーディガンというなりの自分の姿が窓とかにうつるたび、誰かに似てるなと思ってたら、それはロートレックの絵に描かれたおっさんだった笑

クリップの世界

仕事の書類をもらうとき、クリップでとめてあることが多い。
でも出来上がった作品を送るときはほとんどメールですませるので、こちらから書類を誰かに渡すということはあまり多くなく、クリップ類は、どんどん机の中にたまっていく一方だ。

わたしの仕事相手はたいてい出版社とかなので、社内外で、たくさんの書類が活発に飛び交っているだろう。
そうやっていろんな人の手を経て、めぐりめぐって、最後の最後にわたしのところにやってきたクリップたち。

どれも同じにみえるけど、、、
誰かものすごくびっくりするような人から回ってきたクリップや、古い古い歴史あるクリップもあるのかも知れないなー。

おらがべこ発見

2008年に参加した「カウパレード」のわたしの牛、その後どうなったのか、全くわからないままだったのですが、知り合いのアーティスト、ムカイヤマ達也さんが偶然発見して、フェイスブックで知らせてくださいました。

いま、安達太良サービスエリア(下り線)にいるのだそうです。あれから5年もたって、まさか見つかるとは、、、びっくり!!!(絵を見てぱっと気がついていただけたのもすごく嬉しい!)
検索したら、ブログに写真をのせてくださってる方がけっこういて、2009年にはすでに安達太良SAにあったことが確認できました。

カウパレードというのはなんだか意味不明なイベントだったけど笑、絵そのものは一生懸命に描いたものです。片側には昼間の田園風景と麦わら帽子の子どもを描き、もう片側には夜の里山に小鬼が出没する風景を描いて、「田んぼでつかまえて」という題をつけたのでした。

あの牛が、福島にいるのかー。。。ちょっと感動。ところどころ塗料が剥げてるみたいなので、修復に行きたいな。(子どもたちが触ったり登ったりして遊んでいるようです。登るために作られたものじゃないので少し危ないけど、あんなのがあったら登りたくなる気持ちは、まあわかる。)

でもサービスエリアって車じゃないと行けないから、難しいかなあ。中学の修学旅行で福島の会津に行ったときに、体験学習で「赤べこ」の絵付けをしたことがあった。
この大きな牛も、本体は出来合いのものだったし、中が空洞で、わたしは絵付けしただけなのも、赤べこに似ててちょっと面白かった。

九重

子どもの頃、たまに親戚から送られてきて何度か飲んだことのある、アラレみたいな小さなつぶつぶがたくさんうかんだ甘ーいお茶、なんか雅で夢っぽい味がして、すごく好きだったんだけど、その後ずっとお目にかかる機会がなく、時々思い出しては、また飲んでみたいなあ、、、と思ってた。でも母に聞いてみても、どこで手に入るのかよくわからないようだった。

先日実家に帰ったときに、ふと思いついて、母に、あのお茶の名前は何だったのか?とちょっと具体的に聞いてみた。
すると「たぶん、ここのえだったような、、、」という。
それで名前で検索してみたら、あっけなく、簡単にヒットした。
仙台のお菓子「九重」なのだった。お茶じゃなくてお菓子扱いだった。(萩の月が有名になる前は、仙台銘菓といえば九重だったらしい)

宮城県外に店舗はないけど、デパートとかで扱ってることもあるらしい。池袋にある宮城県のアンテナショップに行ってみたらあっさり見つかった。(しかしなんで函館の親戚から送られてきていたのだろうか?笑)

子どものころの味覚だから、今でも美味しく感じるとは限らないと用心しながら飲んだけど、やっぱり相変わらずぽわぽわと夢っぽくて、飲むとほんのり乙女な気分になる素敵な飲みものだった。
わからないと思って放置していたことでも、きちんと調べれば意外と簡単にわかるものなんだよね。。。

切ないペットボトルの話

近所に甲州街道があって、どこに行くにもたいていそこを通るのだけど、いまの季節はけやき並木のちっちゃな若葉がとてもきれいで、とくに夜、オレンジ色の街灯がともったときの、光があたるところと影になるところのコントラストには見とれてしまう。

甲州街道は交通量が多いので、歩道には頑丈なガードレールが作られている。
そしてよくみると、ガードレールの内側にひっそりと花が飾られていたりする。
わたしがよく通る範囲にも、一カ所、そういう場所があって、毎年春先になると、誰かの手で、半分に切ったペットボトルに花が飾られる。

そこを通る人は、その花がだんだん枯れて、排気ガスにまみれながら腐っていき、いつしか得体の知れない真っ黒な煤が入ったペットボトルだけになって、次の春までそこにそのままぽつんと残されているのを、毎年見届けることになる。

横を通るたびにやりきれない気持ちになるけれど、無視することもできない。はっきりいって汚いけれど、捨ててしまうこともはばかられる。春になり新しい花が活けられても、その花のたどる運命を知っているので切ない。

近くに住んでもう8年になるけど、どんな事故があったのか知らないから、事故はそれよりも前のことだったのだろう。
亡くなったのがいったいどんな人だったのか知るすべもないのに、ただ空しい。
ガードレールが補修された跡はないから、事故は車道側で起きたのだと思われる。なのに歩道の内側を歩く人だけがペットボトルの存在に気づくのだ。

わたしにはあのペットボトルが亡くなった人そのものみたいな感じさえしている。

「光」っていう字、星みたいな形で可愛いけど、象形文字じゃなくて会意文字なんだって。ほんとかなあ。

メモ2つ

昨日見た夢。梅の垣根に囲まれたローカル線に乗って、西日本の果ての果てまで行くと、岩場の奥に海がぽっかり広がっていて、青くて透明でなまぬるい水に手をひたしたら、急に雷が鳴り大嵐がやってきたので、あわてて逃げだした。メモ

近所の垣根に星みたいにいっぱい咲いてた黄色くていい匂いの花、カロライナジャスミンというらしい。でも猛毒だそうな、、、メモメモ

美容院であたまがくらくらした話

こないだ美容院に行って髪を切ってもらってるあいだ、ちょっとウキウキ気分で、なんか非日常的な感じの雑誌でも読みたいなと思った。
近くのテーブルに載っていたのは30代ミセス向けのファッション誌だった。読みたいのとは違うけど、ふだん読むことのない雑誌なので手に取った。

そしたら、載ってる記事やアイテムは、みんなそれなりにおしゃれなんだけど、家庭や育児や生活に役に立つお得感が、さらりと、しかし必ず、プラスされている。なんか夢がないというか、豊かなようでケチくさいんだなあと思った。

あまりにも興味がわかない内容ばかりで、戸惑ってしまった。
同年代の女性の気持ちに共感できないのは、昔からずっとそうだったけどさ。。。

おしゃれでもなんでもない、淡々としたわたしの日常のほうが、じつは日常ではなく非日常なのかもしれないと思って、あたまがくらくらした。

震災から2年

2010年の後半ころから、頭の中がカオスになって、日記を書くのがイヤになった。(その直前にはひとつひとつの日記が異常なくらいどんどん長くなっていた)
展示のお知らせくらいしか書かなくなり、しだいにそれすら面倒になっていった。

わたしがツイッターをはじめたのは2009年だけど、はじめのころは放置していた。
まわりの人がどんどんツイッターをやるようになったのは2010年くらいで、ツイッターのせいでブログを書くのが面倒になったという人がたくさんいた。
でもわたしの場合はツイッターもあまり使ってなかったので、関係がない。そのうちに日記の書き方も忘れて、言葉というものから遠ざかっていた。

***

2011年の震災のときは、ずっと部屋にこもりながら、ただ、ただ、たくさんのたちが、それぞれの意見をネット上で言い放つのを追いかけていた。
できるだけいろんな立場の人の意見を読もうと思った。
自分の意見を持っている人は、反対の人がひどい悪者であるかのように切り捨てる。
なんであんなに自分の意見が正しいのだと信じられるんだろう。

わたしにはみんな真剣に見えたし、どの意見にもうなずける部分がある気がしたけど、正反対すぎて、どう考えても、うまい具合に折り合うことはなさそうだった。

とにかく、あまりにもたくさんの人が、あまりにも多様な意見を持っていて、みんながそれをひたすら垂れ流しにして行くだけで、落としどころが見えなくて、次に取るべき行動がよくわからないという状況が、怖くて怖くて、たまらなかった。

わたしに言えることはなにもないと思ったので、ただずっと黙って読んでいた。

でも、言葉の情報はとても便利だけど、ネット上に限らず、テレビでも新聞でも、言葉にたよりすぎると、人間=文字のような錯覚が起きるんじゃないだろうか。

たとえば、会ったこともない政治家の人たちのことは言葉によってしか知らないから、彼らが人間であるということを忘れてしまう。

たしかに、誰が悪いのか知らないけど、変なことが次から次に起こった。
でも政治家だって人間だから間違えることもあるのに、なにか間違いを見つけると絶対に許そうとしない人たちも怖いと思った。

余震の続く中、3月末に、展示のためにロサンゼルスに行ったときは、ほっとした。
アメリカでは、もう日本の震災のニュースはほとんど流れていなかった。
節電中の日本を離れるときは後ろめたい気持ちだったけど、展示の合間に美術館を巡ったり、西海岸のビーチでサイクリングした。

日系人博物館で見た、戦争のときに強制移住させられた日系人たちの展示のキーワードは「我慢」とか「頑張る」とか、、、東北と全く同じだった。

ラスベガスで念願のシルクドソレイユを観て感動して涙を流した。
壮大な電力の無駄遣いがまぶしかった。近くの砂漠には核実験場もあった。
グランドキャニオンも見に行って。。。とにかく、楽しかった。
じっと日本でがまんしてなくてもいいんじゃないかと思った。

日本に戻ってすぐ選挙があったけど、結果はネット上の世論とは全く違っていた。世代間のギャップの大きさも感じて、さらにわけがわからなくなった。
みんなが納得できるような正しい方法なんてあるはずがないし、正しいことに価値なんかないんじゃないかとさえ思った。

アーティストの間ではチャリティ展示が流行った。東北に出かけた人も多かった。わたしは余震も怖かったし、東北に行きたいなんてとてもじゃないけど思えず、行動を起こした人たちに劣等感を持ったりもした。(チャリティ展示には参加したけど、チャリティで絵を売るのには違和感があった)わたしは絵を描くことしかできないし、それで何かの役に立てるとは思えなかった。

親しい人が、不安にかられてデマを拡散させてるのに気づくのは辛いことだった。
原発反対デモに誘われたこともあった。参加した友人たちは生き生きしていたけど、わたしには一方的に意見を主張するだけの行動のように見えて、興味が持てなかった。
デモ隊の大群衆にまぎれて名もなき一市民になるのは、自分を貶めることだと思った。

かといって、伝えるべき自分だけの言葉を持っているわけでもなかったし、いずれにしても、言葉を述べることに意味があるなんて思えなかった。
アーティストにとっては、自分の意見を主張できないというのは致命的なことだけど。

大量すぎるエネルギーというのはそれ自体が恐ろしいもので、発電方法がなんであれ、エネルギーを不自然に独占するという大罪を、わたしたちはすでに背負っている。
そう思うと、なにも言えなくなった。

翌月、用事で関西に行ったときには、あまりにのんびりした日常にあっけにとられた。
放射能さわぎで、西日本や海外に移住した人のことをよく聞いた。

わたしは、放射能よりもいろんな人の思惑の渦が怖くて、逃げ出したかった。
わたしは自由な独り者で、勝手にどこにでもいけて良かったと心から思った。

でもどこにも逃げ場なんかないんだとも思った。

***

地震の前からカオスだった頭がますますこんがらかって、ずっとモヤモヤしていた。
あれから2年。結局、気持ちを整理するには一度言葉にするしかない。
今ならもう誰かを攻撃することにはならないだろうから、うまくまとまらないけど、ただ自分のために、思い出しながら書いてみた。

森美術館の会田誠展でのツイッターを使った作品は、著作権問題で議論になったけど、実際に作品の前に立ったとき、わたしには、あのときの情景そのものように見えた。

星舟庭ライブ「planarity」

下北沢の奥の奥にあるギャラリーカフェ・現代ハイツの、西山功一さん写真展「planarity」の会場で、ライブをしました。

空間を贅沢につかって展示された西山さんの写真もかっこよかったし、半地下の、あったか~い雰囲気のホワイトキューブで、いつになく気持ちよく演奏できました。

演奏した曲目リスト

この年末の忙しい時期に、聴きにきてくださった方々、どうもありがとうございました。
しかも、何年かぶりで岩清水が4人集結したのにはびっくり。
ライブ後、岩清水同好会をやった渋い飲み屋がまた素敵だったなー。

北西5度の笛とベルの音がずっと耳の奥で聞こえてる。。。