お絵描き」カテゴリーアーカイブ

イベントお知らせ

いくつかイベントのお知らせをば。

◎その1
10/30~31に、有楽町・交通会館12階イベントホールで開かれる、「Young Artists Japan」というイベントに参加します。
初参加なので様子がわからないのですが、小規模なGEISAIみたいなものかなと思います。
ときどき仕事に関係なく、好き勝手に大きな絵やオブジェを作りたくなることがあり、個展などを開くのは面倒なので、こういうお祭り的なイベントに出展しています。
今回は「世界とわたしとをつなぐひとすじの蜘蛛の糸」をテーマに、襖くらいの大きさの絵を3つと、小さなオブジェをひとつ、必死こいて制作しています。
入場料500円です。もしなにか銀座に用事があれば、ついでにぜひお立ち寄りください。

◎その2
11/1~1/31まで、渋谷エクセルホテル東急さんのレディースフロアの客室を、17名のイラストレーターの作品で演出する、というイベントにまぜていただきました。
日本の女性のみならず外国からのお客様にも、渋谷のカワイイ文化を発信したいとのこと。
わたしの絵は可愛くはないと思うんですが、そういうのがまぎれてるのもまた渋谷的(?)

レディスフロア『SHIBUYA KAWAII STAY』
期間: 2010年11月1日(月)~ 2011年1月31日(月)
内容: 1泊朝食付き(税金・サービス料込)
対象者: 女性
料金: レディスシングル お一人さま 17,000円より(税金・サービス料・宿泊税込)
レディスツイン(2名利用時) お一人さま 13,000円より(税金・サービス料・宿泊税込)
参加イラストレーター:TAMMY、NICO、玉石佳世、茉莉枝、hipBORNtwin、Ra’yka、蛯原あきら、OGAWA KEIKO、内山ユニコ、今井 杏、miri、高橋由季、岩清水さやか、micca、eimi、さとうれいな、真珠子
連絡先:03-5457-0109(代)
協力:渋谷文化プロジェクト SHIBUYA GIRLS POP

渋谷芸術祭『KAWAII ライブペインティング』
11/20(土)11:00~14:00 渋谷マルイシティ1F店頭にて
土曜日の渋谷のド真ん中で、通りすがりのギャルたちのさらしものになります。それにしても人が絵を描くところを見ていったいなにが面白いんでしょうね???
共演は、真珠子さん・今井杏さん・玉石佳世さんという豪華な顔ぶれです。

また、11/20~23まで、『KAWAII ポストカードコレクション』として、渋谷近辺のお店やカフェで、8名のイラストレーターのポストカードが無料配布されます。スタンプラリーみたいに4枚集めると、なにやらグッズをもらえるそうです。
イラストレーターは、真珠子さん・今井杏さん・茉莉枝さん・玉石佳世さん・eimiさん・Ra’ykaさん・内山ユニコさん、それにわたし。
お店は、大盛堂書店、Lcafe、エスタシオンカフェ、DUBLINERS’CAFE、エクセルシオールカフェ(宮益坂)、ロクシタンカフェ、羽當です。(お買いものしたり飲食したりしなくても、お店に行けばカードもらえるらしいです)
ポストカード、グッズは無くなりしだい終了なので、お早めにどうぞ。

◎その3・おまけ
最近、「星舟庭(ほしふねにわ)」というバンド(?)をはじめました。
メンバーは、イラストレーターの大鹿智子さん、パイプオルガン奏者の原田靖子さん。
楽器はおもちゃのピアノとかどっかの民族楽器とか奇妙な笛とかで、演奏はすべて即興、一般的に知られているバンドで一番似ているのは「ブレーメンの音楽隊」かなあと。。。
それがなぜか『虫フェス』という昆虫食イベントによばれてちょこっと演奏することに(!)

11/6(土)17:30~ 中野桃園会館、入場料1500円です。星舟庭のパフォーマンスは、ときどきすごく面白いこともあるのですが、、、えー、、、
それよりも、昆虫食に興味がある方はこの機会にぜひ!(ってすごくハードル高いですね)
ちなみにわたしはまだ虫は食べたことないんですけどね。。。むー

ライク・ア・ローリング・ストーン!

『オルゴォル』

新聞連載の挿絵を描きはじめたのが一昨年の2月か3月頃だったのですが、長い長い旅路をへて、ついに単行本が発売になりました。

日記にも何度か書きましたが、わたしは装幀の写真に写っている、主人公ハヤトの彫刻(編集さん曰く、朱川さんに似てるらしい)を作りました。

きょう見本を受け取ったのですが、先日PDFで見本を見せていただいたのよりもずっと手触りがあっていい雰囲気に仕上がっていて、すごくうれしかったです。
装幀は絵描きのものではなく、デザイナーさんのものだと思っているので、いつも素材をお渡ししてしまったらあとはすべておまかせなのですが、素敵な出来上がりの本が届くと、やっぱりほんとに感激してしまいます。

この写真は、京都の叡山電鉄さんの車内で、ゲリラ的に撮影されたものです。
もちろん許可は取ってましたが、当日まで本当に撮影できるか不安だったとか。合成とかじゃなく、実際に走っている電車内で撮った気合いがみどころです。

オルゴォル

  • 作者: 朱川湊人
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

このごろ忙しくて日記なかなか書けないんですが、とりいそぎ!

絵の中にしか存在しない時間

わたしは小説の挿絵からイラスト描きの仕事をはじめたので、絵とは、連続する時間(ストーリー)の中の一瞬を切り取るものだと思っていた。

瞬間の積み重ねが時間になっていくという、微分積分的なイメージ。
お話の要点をまとめた説明的な絵や、重要なアイテムを描くこともあるけど、わたしがいちばん描きたいのは(お話のネタバレにならない範囲で)、人物が何かに気づいて、驚いたり、ときめいたりして、世界がぱっと開ける瞬間。
けして、ただ単に美しかったり見栄えがする場面というのではない。

わたしは怖いお話の挿絵を描くことが多いのだが、なるべく、怖いものそのものではなくて、怖さに気づいた瞬間の人物の表情を描く。
何に気づいたか、何が怖いかは、読者の想像にまかせたほうが、より怖い絵になる。
挿絵を描くときには、小説の力と、受け取り手の想像力を利用させてもらっている。
すごく面白い作業だと思う。

でも同時に絵というのは、前後の時間とはまったく関係なく切り離されたもので、忽然と現れた「瞬間」は、それ自体が永遠の時間でもある、という見方もできる。

たとえば階段の真ん中に立っている人物の絵を見たら、その前後の連続する時間に、上がるか降りるかする様子を反射的に想像してしまうのではないだろうか。
でもこれは一枚の絵であって、写真でもアニメーションでもないから、前後の時間ははじめから存在しないし、人物が移動することは絶対にない。(その瞬間が出現する前は、ただの真っ白な空間と画材だったともいえる)

その人物は、なんの理由も脈絡もなく突然その階段の真ん中に出現したのだが、存在してしまったものはないものにはできないので、そのまま受け入れるしかない。
絵は物体だから壊れる可能性もあって、厳密には永遠ではないかもしれないけど、少なくともその人物がその階段から離れることはありえない。

こんな時間の感覚は現実には存在しないけれど、絵だからこそ存在し得る。
わたしは実物を見たりせずに全て想像で描くから、よけいそう思うのかもしれない。
そこにストーリーは入り込む余地がない。
ストーリーの入る余地がなければないほど、絵としては完璧なような気もする。

どんな抽象画であっても、絵からストーリーを読みたがる人は多いだろうと思う。そうでなければ、技術的なこととか歴史とかを評価したりする見方になるのかな。
いろんな見方をしていいのだけど、想像力をいったんとめて、できるだけ頭を使わずに、絵の中にしか存在しない永遠を味わうのも、絵を見るひとつの楽しみ方だと思う。

そのためにはもとは画材だったことを想像させない完成した世界を見せる必要がある。
そういう絵を見せられるようでありたい。
(ライブペインティングとかで描く途中を見せるのもまた別の面白さがあるけどね)

『オルゴォル』オブジェと挿絵

去年新聞で挿絵を連載させていただいた、朱川湊人さんの小説『オルゴォル』の、単行本がこの秋(発売日は未定)に講談社さんから出版されます。

それで、その装幀に、主人公の等身大オブジェの写真を使うことになって、5月ころに制作して、撮影がどうこうと大騒ぎしていたのはそれなんですが、まだ秘密なのかなと思ってたら、編集者さんにブログで紹介していいと言われました。

それで、ホームページに、オブジェの制作過程の写真をスライドショーにしたものと、新聞連載時の挿絵のスライドショーをアップしてみました。

挿絵は全部で246回ぶんもあって、最初のころと最後では絵がけっこう違ってるし、連載中は〆切ギリギリで慌てて描いているので、やっぱり手直しする必要があって、一気には公開できないので、今回は第1回から第30回までだけ。
続きはまた追々アップしていきたいと思います。まあ単行本が出るころまでには。
小説読まないで絵だけ見てもねー、って感じもしますが、、、これはこれでけっこう面白いんじゃないかなあ。良かったら見てみてください。

撮影のため京都に行っていた『オルゴォル』の主人公・ハヤトの等身大オブジェは、今月の始めころに自宅に戻ってきたんだけど、京都から講談社への輸送中に事故にあい、なんと、足首のところがポッキリ折れて、手の指のところも潰れた状態になっていた。
まるで古代遺跡から発掘された、ミロのヴィーナスか、サモトラケのニケみたい。
今回、二足で直立する形に作るのが難しくて苦労したところで、足首は糊で貼りあわせたので弱いっちゃ弱かったけど、表面は樹脂でコーティングしてた。
糊付け面が剥がれただけじゃなくてスチロールの組織ごと割れてしまっていたし、使用した発泡スチロールは、ソファの材料に使われるほどのしっかりしたもので、ちょっとやそっとの力がかかっただけではあんな潰れ方をするわけがないので驚いた。
それは、一度作ったものは、いつか壊れる可能性はあるのだけれど。。。

作ってからひと月以上たち、もう過去のものという気分でいたので、電話で話を聞いたときも、実物を見たときも、わたしはわりと冷静で、怒るとか悲しむとかいった感情はおこらなかった。ただやりきれず、空しかった。
でも編集者さんがすごく怒ってくれて、「講談社の戦う部署」の方たちが、わたしの代わりに運送屋と戦ってくれるんだそうな。
講談社の戦いのプロ。。。味方にするにはたいへん心強い。
法律とかわからないのでありがたいけど、同時に個人事業主の無力さも感じた。

オブジェ自体は、足がないので床に転がして置いておくしかなくて、すごくジャマ。なのでなるべく早めに修理しようと思ってます。ちゃんと直立するといいんだけど。
秋に単行本が発売されたら、朱川さんのサイン会とかで、このオブジェも、もしかしたらみなさまとお会いする機会があるかもしれないので、そのときはどうぞよろしくお願いします。

ドナドナ

早朝、発泡スチロールのオブジェをむりやり仕上げた。
具体的に何を作ったかというと、秋頃に発売になる、ある小説の登場人物の等身大人形。

いままでのオブジェは完全にわたしの世界だったので、足は彫る必要がなかったんだけど、今回は2足で直立させてうまくバランスをとらなければならなかった。
それでいて単なる模型になってしまってはいけないし、なかなか難しい挑戦だった。

これをカメラマンさんに撮影していただいた写真が装幀に使われるとのこと。
まだくわしいことは書けませんが、その撮影が、本日、京都で行われた模様で。
京都は小説の中には1ミリもでてこないんですが、デザイナーさんが京都の方だそうで。むーー、、、東京で撮影だったら見学に行けたのにいい。ていうか京都でも行くつもりで、自腹切ってでも行きたいですってお願いしたんだけど。

それでもダメだと言われたらあきらめるしかないじゃんね。
なんでよー。なにも邪魔なんかしないのにいいい!
まあ結局二徹してたから京都までいくのは体力的にきつかっただろうけどさ。でも新幹線でだって眠れるじゃんね(←まだ言ってる)

撮影に間に合わせるため、編集者さんが朝6時に自宅まであの子を引き取りにやってきた。わたしはギリギリまで描いていて、後ろから同時にドライヤーで乾かしてもらい(汗)なんとかあきらめをつけて(つまり仕上げて)、プチプチで簀巻きにして、、、
そしてあの子はタクシーに乗せられて、ドナドナされて行きました。

そのまま新幹線で京都まで行って、10時から撮影に入るということで。
あの子が著者さんに似てると言われたのは意外だった。…パパ似? 複雑だわ(笑)。
まあ、あの方に似てるのならば、相当見た目のインパクトがあるってことだ。よし。
でもその後ひとり取り残されたわたしは寂しくて悲しくて悔しくて呆然としてしまった。

今回のオブジェは、最初の〆切の日から4日くらい待ってもらって、じっくり作った。彫りや着彩だけじゃなく、地塗りとかヤスリがけなどもけっこう丁寧にやった。
完璧ということはありえないので、時間があればまだいくらでも描き続けられるんだけど、それでもやっぱり制作に時間をかけると、クオリティが上がるものなんだなあと思った。

意味を伝えるだけで良いのだったら、もっと早い段階のものでも完成してたと言える。至近距離からの撮影ではなく、オブジェが風景に溶け込んだ写真を使うようだから、本当は、お仕事としてはここまでクオリティにこだわる必要はなかった気もする。

でもあの子が運び出されて行ったあとで、部屋に戻って鍾乳洞のオブジェをみたら、すごく雑で荒けずりでいいかげんで適当で、なんだかゴミみたいに見えてしまった。
あれは一個一個の形より全体を見せるのが目的ではあったけど、、、意味と雰囲気を伝えるだけのものになってしまっていたなあ、と今更ながら反省した。

それから睡眠をとって、夜中近くに息をふきかえし、食糧の買い出しに出た。
毎日徹夜してたから外が暗いのが新鮮で、ああ夜って暗いんだと妙に感動してしまった。

2次元と3次元

わたしの絵はデッサンとかめちゃくちゃだということはよくわかってるけど、2次元で紙に描いていると、それはそういうものとして成立してしまうところがある。

オブジェを作る時にいつも考えるのは、その絵を3次元におこすとどうなるかということ。
しかもわたしの絵は線描で、その線はリアルには存在しないものだから、3次元になった物体に線を描き込むと、そのヘンテコさがすごく際立って、超スリリング。
輪郭の黒い線を立体化したら、本当は、表面は全部真っ黒に塗りつぶさなければいけない。さすがにそれやっちゃうとアートになっちゃうからしないけど。

他の部分の線も不自然なんだけど、描かないと不思議ともの足りなかったりするので、不自然になりすぎないようなギリギリの線をみつけて描いていくという変な作業。
線描ってほんとに不思議で、なんで現実には存在しない「線」で描いたものを、人間は情報として認識できるのか。子どものときから線の絵を見慣れてるおかげなのか。古代の洞窟壁画も線描ということは、人間は最初から線で世界を認識しているということ?

あと陰影。本物の立体なんだから陰影をつける必要はないのに、あえてつけるのが面白い。
人間そっくりなものを作りたいわけじゃないけど、人間として認識できる必要はあり、もともと矛盾したものを、上から下から斜めから見ても矛盾を感じさせないようにして、なによりも可愛らしく作らなければならないんだから、意外に気をつかっている。

ちなみに、2次元の絵を描く前に最初にわたしの頭の中にあるイメージは4次元だと思う。
3次元のものを2次元に落とすときはデッサンが必要になるのかもしれないけど、4次元から2次元にするのならなんでもありなんじゃないかなあ。
で、4次元の自由でふわふわしたイメージを2次元に落とし込んでいくときに、2次元だからこそできる形式や方法を使うことで膨らむ部分もあるし、新しい発見もある。

そうしてできた絵は一つの完成形だけど、逆に拾いきれずに落としてしまうイメージもある。
それが惜しくて、絵には描かないで取っておきたいイメージもある。
でもわたしの頭の中のイメージはわたしにしか見えないから、それを誰かに見せたければ、なんとかいちばんしっくりくる方法を見つけて、頭の中から取り出さないといけないのだ。

ところで、いわゆる2次元キャラ萌えがどうにも気持ち悪い感じがするのは、元の頭のなかのイメージも2次元だからなんじゃないかという仮説をたててみた。
わたしは萌えがないので検証できないんだけど、どうなんでしょうかね。

やばいやばいやばい!

〆切ってヤツは、重なる時には重なるもので。。。
発泡スチロールの彫刻と並行して、先週からずっと実用書のためのカットを描いていて、全部で69点、今朝納品した。こういうお仕事はわりと気楽なんだけど、数が多いと大変。

ナイフを振り回して削りまくって腕がしびれてくると、PCに向かうことの繰り返し。
スチロールの削りくずは粒子が粗いので同じ仕事部屋でPC使ってても大丈夫…だよね?

というか彫刻のほうも今日くらいまでにといわれていたはずなのだが。でも〆切延ばしてもらっても、今週は雑誌の挿絵の〆切もいくつかあってかなり厳しい。

体力的にもだいぶしんどくなってきた。。。

とはいえ仕事が忙しいときは仕事のこと以外考えないからその点では楽かも。

修羅場なう!

仕事部屋じゅうにブルーシートを張りめぐらして、また発泡スチロール彫刻やってます。

今回新しくハンズで買ったナイフが使いやすかったので「村雨くん」と名前をつけた。
どこがいいって、小ぶりで小回りがきいて、しかも刃の裏表両面で切れる。
だからナイフを上から下に降ろしても下から上に引いても切れるので無駄がない。それに先っちょも切れるから細かいとこを削るにもすごく便利。
去年は大活躍した「斬鉄剣」は長すぎるので今回はほとんど使いみちがなさそう。
ハンズで新しいタイプの電熱カッターもみかけたので欲しかったけど、今回は見送った。
でも、ハンズ参りは怠ってはいけないな。道具ってほんと大事。

日本画入門

学生時代のサークル仲間のSちゃんは、その当時から日本画を習っていて、プロではないけど、今は教室で先生の代わりに教えたりもしている腕前。(ちなみにSちゃんのおばあさまは伊東深水のモデルをしたことがあるとか。ふおお)

きょうはSちゃんの自宅アトリエにお邪魔して、日本画の技法を教えてもらった。
日本画を習うのは、道具とかお月謝とか、なにかとお金がかかりそうだけど、友達にちょこっとさわりの部分だけ教えてもらうくらいなら気楽にできるかなあと。
ちょうど昨日、アクリル画の描き方を変えようと決意したところでもあるし。

事前に「箔」だけは自前で用意してねといわれて渋谷のウエマツに買いに行ったのだが、金箔ってものすごい高いのね!…まあそりゃそうか。当然、一番安いアルミ箔を買った。
アルミ箔といっても、お料理に使うのとは違って薄いので、けっこうな値段したけど。
でも日本画の絵の具売り場に並んだ、瓶入りの岩絵具の色とりどりの粉末、あれを実際に使ってみることができるかと思うととってもワクワクした。

Sちゃんが、前もってニカワを湯煎で溶かしておいてくれたので、最初に、2種類の和紙に墨汁&紺色の絵具でグラデーション状に地塗りをしてから、乾かして、片方にはドーサを使ってアルミ箔を貼り、もう片方には胡粉を塗った。

紺色の絵具は固い棒状で、墨をするみたいに根気よく水に溶かさないと使えない。胡粉は貝殻の粉末で、おひな様の顔の白。すり鉢で砕いて、ニカワで練って、水に溶く。使いたい絵具はいちいち擦ったり捏ねたりしなきゃいけなくて、とにかく時間がかかる。
箔は手で直接は触れないので、一旦、ロウをひいた「あかし紙」にくっつけてから貼る。薄くて鼻息でもすぐ破けるし、皺が寄らないように貼るにはかなり神経を使う。

金閣寺の(趣味の善し悪しはともかく)あの箔の貼りっぷりはすごいんだな~と思った。で、乾くのを待って、手でグチャグチャに揉んだり折り畳んだり表面をこすったりして、面白い模様つきの紙ができあがった。和紙ってこんなにしても破れないんだねえ。
それからもう一度水を含ませた刷毛を使って紙の皺をのばし、でんぷん糊を水に溶かしたのを塗って、裏にもう一枚薄い和紙を貼って補強した。

これでやっと下地づくり完成。きょうはここまで。絵を描くとこまでいかなかったけど。
Sちゃんは教え方がうまくて、いろいろ聞くとちゃんと的確に答えてくれるので、乾きを待つ間にもいろんなこと教えてもらって、たくさん頭を使って、けっこう疲れた。
とにかく悠長で、現代とは思えないやり方だけど、同時にすごく合理的な理由もあって、(ニカワの水溶液は腐りやすいから固形で保管して使うたびに溶かすとか)道具や手順のひとつひとつに先人の試行錯誤や知恵の積み重ねが感じられた。

わたしはずっと自己流で絵を描いてきたので、なにかすごく圧倒されるものがあった。
それに、絵の具って、いつも何気なくチューブから出してじゃんじゃん使っているけど、本来こうやって大事に大事に研究を重ねて作ったり使ったりする、それ自体宝物なのだ。
金箔だけでなく、こんな宝物を使ったら、中途半端なものは描けないだろう。
手軽なアクリル絵の具も、すごい技術の塊で、やっぱり宝物に違いないなあ、と思った。

絵を描くのってしんどい。。。

このところ、2年前に描いた絵、12枚ほどの描き直し作業をしている。
最初に描いたときも、正直言って完成してるとは思えなかったのだが、あれ以上どうしていいかわからなくて、そのままになっていた。
いまみるとすごく雑で、これまだ下塗りじゃん、って感じ。
新しい絵を描くのもいいけど、描きたい世界そのものは2年前と変わってないし、骨格はそのまま残していいと思う。それでいかに完成度をあげるか。

キャンバスに描いた絵だから、上から何度重ねても大丈夫なのは良かった。
紙に描くほうが気軽だし、絵の具のなじみ具合とかも好みなのだけど、あんまりいじると汚くなってしまう。キャンバスに描く利点はこんなとこにあったのか。

展示のためとか、締め切りがあって描くわけじゃないので、(わたしは締め切りがないと描かないと思っていたけど!)手順も決めずに、ぱっと思いついた色を納得がいくまで何度も何度も重ねていく。

わたしが絵の具で描いたのは4年前の個展のときがほぼ初めてで、あのときはヘタなりに試行錯誤して、一枚一枚違う絵の具の使い方をしようとしてた。

その翌年くらいに、ある人に、人物を大きく描いてみたらとアドバイスされた。それも面白いし、やってみるだけやってみようと思った。
でも、あの目がでっかい人物は、大きく描くとすごくバランスがへんになるのだ。
絵自体はシンプルだから、持たせなきゃいけない空間も大きくなる。それは太い筆で描いたら解決するかなと思って試したり、たぶんアドバイスしてくれた人は背景は少なくするべきと思っていたのだろうけど、じつはわたしが描きたいのは人物より背景なので、人物を大きくするにつれて、どんどん背景も大きくなっていった。
結果的に絵自体が大きくなっていって、こないだはあんな壁画まで描いてしまった。

でもそうしてるうちに、塗り方や色に注意を払うことがしだいにおろそかになり、そこに頭を使わなくなって、手順が決まってきて、雑になってしまった。
ただでさえ、絵が大きいと小さい絵では気にならないアラが目についてしまうのに。
こないだ壁画をやったときに、そのことを痛感したのだった。
壁画じゃなくても、5枚組とか7枚組とかの連作を描いたときも、全体の世界観は悪くなかったけど、一枚一枚の絵を見せることができてなかった。
よくお客様に世界観があるね、と言ってもらってたのは、褒めてもらってたんじゃなくて、それ以外はダメだねって意味だったのだなあ。。。

絵の具をざっと薄塗りしただけでセンスよく仕上げられる人もいる。そういうの粋でカッコいいな~と思うけど、わたしのやりかたは違う。
下塗りの段階で終わりにしてもいいかも?と思うことも、塗り重ねる前の写真と比べたら、前のほうが良かったんじゃない?ってこともある。
イラストの仕事では、不完全な状態のほうが良さを出せることだってある。
でもしつこく何度も何度も塗り重ねないと、納得がいかないのだからしょうがない。塗り重ねた結果のほうが良かったと思えるような描き方をさぐっていかないと。

そうやって描いてると先が見えないのでけっこうしんどい。絵を描くのって大変。
使っている絵の具の特性もあって、わたしが絵の具で描いた絵は色合いが淡くて、妙におとなしくて、PCで描いた絵のような弾力がもうひとつ欠けている気がする。
PCで描いた絵のほうが仕事にもなってるし、やっぱり印象も強いのだと思う。

そこを埋めていくことはできるだろうか?
うーん、、、単純に画材を変えたほうがいいのかな。。。

つぎに描く絵

絵を描きながら、つぎに描く絵のことを考えてたりする。いつもこんな調子。
集中力がない。でも夢がふくらんでくのをとめられない。。。
だって描くより考える方が楽しいんだもん。

ある一日

徹夜して朝までにどうにか挿絵を仕上げ、ふと、わたしの前世って小人さんだったんじゃなかろうか、と思う。

まあいつもこんな調子なんだけど。
そのあと頭が冴えて眠れなかったので、いろいろ雑用してるうちに、眠気がきたのでパタッと倒れて、1時間くらい眠ったところでハッと目が覚めた。
あれ?そういえば今週打ち合わせの予定があったな、、、明日だった気がするけどいちおう確認しておこう、それにしても今日っていったい何日なんだっけ?なんて思って手帳を見たら、待ち合わせの時間は今日の2時間後だった。

焦った。。。でも気がついてよかった。

とくに今回は、ちょっと面白い打ち合わせだったし。
イラストのお仕事じゃないんだもん。またオブジェ作りますよ~!おほほ。
スチロールの人形作りは、趣味のようなものだと思っていたし、いったんやめようと考えてたんだけど、それはもう置き場所がないからなので。。。
本格的にカメラマンさんに撮影してもらえるそうだし、どんなふうになるのか、すごく楽しみ!

感情表現ということ

このところ演劇的な表現をいろいろと目のあたりにして、感情表現ということについて考えている。役者さんたちが感情と向き合っていることと、自分のやっていることは、どこが同じでどこが違うのか。

たとえば自分自身が悲しかったり、悔しかったりしたときに、ストレートに絵にその感情をぶつけてしまうと、あとで恥ずかしくて見るのもイヤな作品ができあがってしまう。
すごく感動して夢中になって描いたものも、やっぱり面白くない。だから絵を描くときはわたしの場合は心をできるだけ揺らさないようにする。

かといって、感情抜きの頭でっかちな絵を描きたいわけでもなく、じゃあわたしがいつも描いているのはなんなのかと考えたら、それはどうも、感情が感情になる一歩手前の「驚き」というか、心が揺れることに対するとまどいのようなものなのではないかと思う。
怒りとか、悲しみとか、恐怖とか、喜びとかに分化するまえの何か。
だからそれが自分の感情といえるのかどうか、よくわからないし、それを伝えるために絵をかいてるわけじゃないけど、それが芯にあるのは確か。

反対に、ゼロから絵を描いていく中で、新しい感情がでてくることはあるだろうか?

描きはじめるときは、出来上がりのイメージがかすかにしかみえないので、すごく不安な気持ちで、手探りで進んでいく。
不安で、不安で、不安で、最後まで不安で、それでどこかで納得するか、あきらめる。
途中で、何か発見したり、面白いなと思ったりすることはあるのだけど、やっぱり、激情というようなものは起こらないように思う。
ただ最初から最後までずっとモヤモヤモヤモヤしている。

でも、そういうはっきりしないものを描いていくにしても、実際の生活のなかで起こった自分のいろんな感情は、押し殺すのではなく、揺れたものは揺れたものとして正直に認めていきたい。
認めたからといってそれが直接絵に反映されるわけでもないけど。
前は、感情をその場でだだもれにしたらもったいない、損をしてしまうような気がしていたけど、わたしが絵に描くのはその場その場の感情とは別のものだから、けちけちしなくていいんだな。

わたしはどっちかといえば鈍感な人間だと思う。
でも先月くらいからなんだかセンシティブになっていて、妙に心が揺れていた。これといって大きな事件があったわけでもないのに、ささいなことでも気がそぞろになってしまって、まったく絵が描けなかった。(仕事の絵なら、文章に沿って描いていくから大丈夫。ちゃんと仕事はしてます)

そういう心が揺れたときの、具体的な事実は、わりとすぐに忘れてしまうけど、まわりの空気だとか、匂いだとか、そういうものを、いつかふっと思い出して、すこしずつ絵の中に紛れ込ませていくのかもしれない。これまでも、たぶんそうだった。

…と、自堕落にすごしてしまった時間を正当化してみる春の日であった。

ありがとうございました LOVE ∞

きょうでもう展示が終わりなので、夕方、搬出に行った。
クローズの直前に編集者のAさんがきてくださったので、ちゃちゃっと絵を梱包して一緒にギャラリーを出て、ハッと気がついたら、なぜか歌舞伎座の幕見席にいた。
歌舞伎座はけっこう通ったけど、実は幕見はしたことがなかった。
もうすぐ取り壊しだからいまさらだけど、けっこう見やすかったんだなあ。

観たのは、「高杯」と「籠釣瓶花街酔醒」。
勘三郎さんは次郎冠者に次郎左衛門と、出ずっぱり。二月歌舞伎なのに派手!
いやあしかし玉さまの八ツ橋のオーラはすごかったな。。。
籠釣瓶を見るのは3回目で、雀右衛門さんと福助さんの八ツ橋は過去に見たけど、やっぱり玉さまの神々しさは、すっばらしいわ。なんなのあれはー。
壁だか柱だかにもたれてたたずむ仁左衛門さんは宝塚顔負けの麗しさだったし、二人の並びがそりゃもう錦絵のようでしたよ。眼福眼福。

玉さまは明治時代の演目が似合うなあ。
明治の歌舞伎は、江戸時代に対するオタク的な憧れや理想化が強すぎて、美しいのに陰湿で壮絶な感じなので、わたしはあんまり好きじゃないんだけど。
意識は近代化してるから、主人公がコンプレックスをかかえてたりとか、この話も、最終的に誰も幸せにならないし、ほんとに後味が悪くて嫌い。
ま、それでも面白いから3回も観てるんだけど。

でも遊んだだけじゃなくて、終演後に多少は仕事の話もしましたよ、念のため。

期間中、展示においでくださったみなさま、どうもありがとうございました。
やっぱり6日間は短すぎだなー。みなさんともっともっとたくさんお話したいのに。
グループ展は他の出品者のお客様にも見ていただけるのが一番の利点だけど、出版関係のみなさまには、今回、他の出品者と作品の質的にかなり違っていたので、足をお運びいただいて、ちょっと申し訳ない気がしました。

絵を描く機会を積極的に作るということで、出品する意味はあるし、気軽にお目にかかれる機会でもあるので、展示はちょくちょくやるべきなのだけど、なんか志向的にちょうどぴったりくるグループに入れてないんだなー、わたし。
誘われたら受けるんじゃなく、そろそろ自分の場所を探していかないといけないか。

でも、個展やるのは面倒だし、絵だけ飾るような展示にはもう興味もないし。それに、個展でお客さん集められる自信があんまりないし(4年前よりはまし?)。
どうしたらいいんだろう。。。

イラストをメインに、カフェとかで展示するようなことも考えてみようかなあ。
…カフェとか似合うと思う?どっちかっていうと喫茶店タイプじゃない?わたしの絵が飾られたカフェって、あんまり落ちつかないのでは。。。

今回考えたことと、思わぬ展開

きょうは、予定の時間から1時間も遅れてギャラリーに到着。
もしその間においでの方がいらっしゃったら、ほんとに申し訳ありません。。。

それでギャラリーにいた時間は短かったのだけど、デザイナーSさんや、いつもきてくださるお客様にもお会いできたし、アートコレクターの方とお話しして、どういう絵なら買いたいかとか、買った絵の保存についてとか、いろいろ教えていただくこともできた。他の出品者の方にも、わたしの絵について貴重な意見をいただいた。
自分だとなかなか気づけないこともあるので、ありがたいことです。
ちゃんと絵になっていると言っていただけたのはうれしかった。

2枚描いて縦に並べて展示した上のほう、草原の絵が、圧倒的に好評のようだ。
まあそうかも。こっちの絵のイメージはテーマを聞いて自然に思いついたけど、もう一つのほうはギリギリまで考えて考えて無理矢理ひねりだしたものだから。

下の絵のほうがちょっと不自然さがあるのと(ある意味イラスト的ともいえる)、はじめてやったことなので、色バランス等、しっくり馴染んでない部分がある。(ただ人物の顔色が暗めなのを直すだけでもかなり印象を変えられると思う)
自分としてはあの2枚はやっぱりセットで気に入ってるんだけどなあ。

でも、イラストってとても素晴らしいものなので、こうしてタブロー的な作品を描く時にも、その要素をうまく残せたらと思う。
イラストは注文を受けて描く絵だから、自由に描けないと言われることがある。
それはたしかにそういう部分もあるのだけれど、人間として生まれてきた以上、言葉から完全に自由にはなることは難しいし、たとえばタイトルを「無題」としたとしても、無題という言葉自体が、見る人にある印象をあたえてしまう。

言葉からなるべく離れよう離れようとして描いていく方向性もあるだろうけど、「言葉」と対峙するための方法として積極的に「絵」を使うのがイラストだと思う。

そう考えると、イラストってすごく哲学的だし、イラストがアートより下だと言う考え方は俗物的だと思う。
わたしが描いたイラストが変だったとしたら、それはわたしが悪いのであって、イラストレーションのせいではない。

で、そのあと、肩書きいろいろのTさんが来てくださって、こんど上海で展示をやらないかというお話をいただいた。
話を聞けば聞くほどうさんくさいんだけど、それも中国っぽくて、大変面白そう。
ただ日程が、11月のアートコンプレックスセンターでの展示と完全にかぶってた。どっちもむやみにスケールがでかい話な上に、詳細がよくわからないので、はてさて、困ったな。。。
両方やりたいんだけど、なんかいい方法はないだろうか???