雑記帳」カテゴリーアーカイブ

お勉強の日

今日は免許の更新に行った。
新宿もおまわりさんだらけだったので、また犯行予告~?と思ったが、警察についたら「サミットのため特別警戒中」と張り紙がしてあった。
まあテロでも犯行予告でもおそろしいのは一緒だけど。
今もしかして日本中であんなふうにおまわりさんがうろうろしてるのかな。
いざとなったら彼らが守ってくれるのかな。

免許の写真は場末のスナックのママみたいな微妙な写りになってしまった。やっぱりこないだかけたパーマ、似合ってないのかもなー。
優良講習の、恐怖をあおるようなビデオを見て、やっぱりわたしには運転は絶対できないなあと再確認した。

それから森美術館で開かれたアート講座を受講。「現代アートを買ってみる?ーアートマーケットの最新情報」講師は辛美沙さん。
すごく面白かったし、いろいろ考えさせられたけど、それについてはまた今度。

危ない…

忙しくても、ただ無我夢中にこなすのではなくて、半年前とはちがう、どこかに着地できるようにしなければ。いま、ちょっと迷走しているような気もする。
考えているだけではだめだけど、、、
わたしは間違った方角に行ってはいないだろうか?

充電完了

展示が終わって、ためこんでたお仕事を片付けたあと、電池が切れた。
二日ほど眠りと覚醒のあいだあたりでふわふわしていたが、やっと元気になった。さー、次いこ、次!

なんかこのごろ日記さぼってたら、なに書いていいかわからなくなっちゃった。
もともと、どうしても書かなきゃいけないことなんてないもんなあ。

今日は青シソの種まきをした。
先週の展示でご一緒した安藤さんにいただいたミニトマトの苗も元気だ。
こないだ漬けたラッキョウがおいしくなって、毎日おやつにパリパリつまんでいる。まだラッキョウ出てるし、もう一瓶漬けたくなってきたけど、次の展示もあるから我慢。

それから久しぶりに吉祥寺に行って、画材とかいろいろ買い出ししてきた。日曜は混むからいつもは避けるのだが、珍しく買い物したい気分だったので。
明日になったらまた家にこもっていたくなってしまうかもしれないし。
夕食に入った、某チェーンのパスタ屋の店員さんたちの雰囲気がおだやかで良かった。

あたらしい椅子

「通販生活」で注文していた、デスクワーク用の椅子が届いた。
萩尾望都・庄司陽子・里中満智子さんが紹介していたので、まんまと乗せられてしまったのだった。
萩尾先生とおそろいのオレンジ色にしてみた!

海苔弁

忙しいときは、海苔弁など簡単なものを作り置きしておくのだが、たくさんあると、つい食べすぎてしまうのは困ったものだ。

同期会

きょうは、大学時代に入ってた美術サークル「パレットクラブ」(同名のイラスト学校があるが、それとはまったく別の、伝統あるサークルで、どのくらい伝統があるかというと、最初の顧問があの福沢先生だったとかいう話)の同期たちと表参道のしゃれたお蕎麦屋さんでランチ。

わたしは1年だけでやめてしまったので、みんなと会うのはじつに12年ぶりくらい。
他の人たちも卒業以来ほとんど会ってなかったらしく、当然よく覚えていないし、共通の話題もない。かといって思い出話をするでもなく、あたりさわりのない話をして、大人9名+子供2名でダラダラと、けっこう楽しく過ごした。

でも、そうだった、もともとこんなようなサークルだったのだ。みんなヒマなくせに、ほとんど絵なんか描かなかったし、なんか議論したりとかそんなことももちろんなく、ただ集まってぼーっとしていた。絵ってひとりで描くものだからなのか、まとまりというものがまったくなかった。

それでもなぜか妙にキラキラした印象が残ってるけど…。
その後、同期のうち3人が絵描きになり、他にも、今でも絵を描いてる人も多いようだ。
今、こうして集まれるというのは、だいぶ大人になったんだなあという感じがする。
こういう未来は想像もしてなかったなあ。

生きのびたい

日本人の2割が過去に本気で自殺を考えた、という内閣府の調査の記事を読んだ。
本気じゃなくても考えたことがある人はもっとたくさんいるのだろう。
てことはあれか、今まで一度も自殺を考えたことがない、わたしのような人間のほうが、もしかしたら少数派だったりするのか?(わたしはいつも「昨日のわたし、死んじまえ」って思っている。でも明日のわたしが死ねばいいとは思ったことがない。)

自殺願望を持たずにいられない人は、おそらく心底つらいのだろうが、そんなに多いのだとすれば、この国はもう良くなりようがないのではなかろうか。
最終的には自殺すればいいという考えでいると、他人を批判することはできても、じゃあどうすればいいのかという建設的な意見は出せなくなるだろう。

批判というのは、自分は安全圏にいて、相手が改めるのを待つことだ。それももちろん必要なことだけど、人まかせはほどほどにしておいて、自分ができることをさっさと考えたほうがいいと思う。

わたしは地震が怖い。ほんとうは、環太平洋造山帯から脱出したいけど、もし東京で四川並みの大地震が起きたとしても、絶対に生きのびたい。
そのためにできることならなんだってしたい。
生きる意味なんてわからないし、なんで生きたいのかもわからない。生きのびる価値があるかどうかなんて、知ったことではない。

わたしに取り柄があるとしたら、生きたいという気持ちなのかも知れない。
ただいたずらに不安になったり、政治家に文句を言うよりも、いざとなったときに、どうしたら自分が生き残れるのか考えたい。
最後までジタバタした上で、万策尽きて死ぬんだったらそれはしかたがないけれど。
困ったときに、誰かが助けてくれるはずだなんて、どうして思えるんだろう?

自殺したいにもいろんな理由があるのだろうが、よく言われるように、日本の景気が悪かったり、世界での競争力が落ちてるとしても、勢いのある国があれば勢いのない国もあるのはあたりまえのことで、そんなことで閉塞感を感じたり、やる気をなくすなんてばからしいと思う。

わたしは日本が好きだし、描く絵には明らかに日本の気候風土が影響している。
でも、わたしというひとりの個人は、たまたま日本に生まれてきただけなのだし、国単位で、他の国と比較することで劣等感や優越感を感じたり、一喜一憂したりするのは、あくまでゲームみたいなものであって、ゲームで負けたからって、個人が死ぬ必要はないと思う。

ハリハリ鍋

ベランダの水菜を収穫。
冷凍庫に常備してる油揚げと豚肉を使って、友人Kに教わったハリハリ鍋にした。
鍋って季節じゃないけど。

ゴーヤはまた失敗したし、ベランダ野菜はこれからは水菜オンリーで行こうかな。
簡単にもりもり育つし、おいしいし、近い将来の食糧危機に備えて植えておくといいと思う。

ウェルカムボードに再挑戦

今週も大鹿さんのお絵描き教室に行った。
今日は公園に出かけて水彩でスケッチ。こんなのセツに行ってたとき以来だ。
あのころは絵を描くたびに自信をなくして落ち込んでいたっけ。
今だってそんなにうまくなってないけど、とても楽しかった。これからときどきスケッチもやってみたいなと思った。

帰りに妹と妹のフィアンセ氏と会い、夕飯をおごってもらいながら、結婚式の席次表やらウェルカムボードやらの制作を引き受けたのでその打ち合わせ。
キラキラでファンシーでラブリーなウェルカムオブジェ(?)になる予定。
ウェルカムボードについては以前にこの日記でクソミソに書いたことがあるが、あれからわたしもだいぶ大人になった(笑)。(今にして思えば、あのときはようするに、描いた絵を、友だちとはいえ他人にあげてしまうのがイヤだったのだなー)
そういえば、あきさんによればニューヨークにはウェルカムボードはないそうだ。あれは日本独特の風習なのか?

不肖の娘

今日は父の59歳の誕生日。つまり来年で定年なので、最近の父はなにかにつけて「あと1年」というのが口癖になっている。
なんで60歳で区切るのかは意味がよくわからないけれど、いずれにしても、そんな長い間勤めてきたのはすごいことだし、それ以上に、人間が59年間も生き延びるのはとてもすごいことだと思う。

今月は母の日があったが、同じ週に父の誕生日もあり、来月は母の誕生日と父の日がある(ついでにわたしの誕生日もある)。
わたしはその手のイベントにはどっちかというとあまり関心がなく、忘れてるわけではないけど、ついついスルーしがちだ。ま、わたしにくれるプレゼントはよろこんでいただくのだけど。(でもいつもいつも感謝の気持ちでいっぱいなんだよ!?)

でも毎年5月になると両親はソワソワしはじめて、電話をかけてきたり、何かを催促してきたり、ほうっておくと機嫌悪くなったりしてなかなか面倒くさい

妹はそこらへんはマメなので要領よくやっているみたいだ。
友人Bちゃんは、毎年、弟さんと(勝手に)連名にしてプレゼントをしてるそうだ。
うちの妹もちょっと気をきかせて連名にしてくれるとありがたいのだが~(笑)。

自己暗示からの自由

一般に女の人はテレビやパソコンの接続が苦手だと思われがちだし、実際そういう人は多いのだが、あんなのは学習すればそんなに難しいことではない。

「できないー」と言ってる女の人は、
1)もともと覚える気がない
2)できないと思い込んでいる
3)覚える機会がなかった
4)できるけどできないふりをしている
5)ほんとうに能力がない(でもこれは少ないと思う)
のどれかだろう。

いずれにしても、面倒くさいから誰かにやってもらいたいという依存心と、できないほうが女らしいからという価値観が背後にあるのだと思う。
でも、そういう女の人ってたしかに可愛いし、個人個人の生き方の戦略もあるから、できないならできないでかまわないし、責めようなんて思わないけど、わたしが怖いのは「できない」と思い込んだせいでほんとにできなくなってしまうことだ。

たとえば絵が描けない人は、自分は絵は描けないという自己暗示にかかってしまっている。それで、絵を描くことに恐怖を感じているように見える。
誰も描くなと強制してるわけじゃないのに、描けなくなってしまう。
絵を描くということは、そういう自己暗示や恐怖から、いかに自由になるかということだ。自己暗示から解放されれば誰でもピカソになれるか、といったらそんなわけはないけれど、絵を描くこと自体は、誰にだってできることなのだ。
まあ、絵なんて描かなきゃ描かないで生きて行けるけど、描いたら楽しいよ。
これは、演劇でも、音楽でも、スポーツでも、なんでも同じことなんだろう。

政治的、社会的な圧力や、集団的な暗示(ジェンダーとか)や、置かれた環境や、戦うべきものはいくらでもあるけれど、けっきょく、一番やっかいで、最後まで自分を解放してくれないものは、ほかでもない、自分自身のなかの思い込みなんだと思う。
わたしも、まだまだ、いろんな恐怖や暗示にとらわれていて、がんじがらめになっていて、きゅうくつできゅうくつでしかたがない。

そこから少しでも自由になりたい。

「ラ…!」

わたしは中学・高校とずっと放送部だったし、高校では演劇部にも入ってたので、毎日毎日、田んぼやグラウンドにむかって大声で発声練習していた。(中学は田んぼの真ん中にぽっかりと島のように建っていて、発声練習すると、やまびこが響いてきて気持ちが良かった。)
大学のときもミュージカルのサークルに入っていて、腹筋・背筋とか鍛えていたので、そのころがいちばんよく声が出た。
じつはその後も、意味もなくボイストレーニングに通ったりしていた。

そんなわけで、わたしは声が大きいし、時々大声を出さないと気持ち悪くなる。
受験勉強のときは歌いながら勉強するとすごくはかどったし、前の部屋はマンションだったからけっこう本気で歌いながら絵を描いていた。
いまは壁のうすいアパートだからがまんしてるけど、気がつくと鼻唄を歌っている。

会社員のころは、なにが大変って、ずっと歌わずに仕事しなきゃいけなくて大変だった。
でも一度、デスクワーク中にいきなり

「ラ…!」

と大声で歌いだした自分にハッと我にかえって、すごく恥ずかしかったことがあった。
とはいえ、それを思い出すたびに赤面するかというとそんなことはなく、会社勤めが向いてなかったのだから仕方がないと思うのだった。

それより気になるのは、あのとき歌おうとした歌がなんだったのか思い出せないことだ。
歌いだしが「ラ」の歌って、なんだろう…。
「ラ・バンバ」?(←今調べたら歌いだしはラじゃないみたい)
「ラブ・イズ・オーヴァー」?
うーん、なんかキーが違うんだよなー。それにたしか裏声だったし…。
今でもときどき、あれが何の歌だったのか考えているわたしであった。

あーあ、いつか防音つきのお部屋に住みたいなあー。(つまりなにが言いたいかというと、カラオケに行きたいってことです。)

蝶よ花よ

ホームページのマウスポインタにちょうちょの画像をくっつけてみた。

ちょううざくてばかばかしいです。
(NetscapeとかFirefoxとかだと動作しないみたい…)

水の体質

先日「岩清水さんは岩清水という名前だけあって、水の体質ですね」と言われ、気になったので調べたら、アーユルヴェーダの体質診断の話らしい。
ネット上にたくさん診断テストがあったのでいろいろやってみたが、やっぱり、水(カパ)の体質でまちがいなさそう。(というか、そんな診断しなくても見た目からして典型的な水の体質らしい)

診断結果から性格もわかるんだけど、これがまたかなり当たっている。
自分のことが好きで、周囲に左右されず、のんびり者で、理解が遅い…とかなんとか。
うーん、やっぱり、人間、見た目でわかることって多いんだなー。
でも、べつに変化が嫌いなわけじゃないんだけどな…。
どう考えても今のままで満足しちゃだめなのは明らかだし、ってことは、まずは体質を改善しなきゃいけないってことか!