プリーツプリーズ

昨晩友人Kと電話していて、友人Kが、着る服が変わると性格も変わるんじゃないか?というので、いや、性格が変わるから着たい服も変わるんじゃないの?なんて話しているうちに、ある日お家に帰ったら、何者かによってクローゼットの中身が全部とっかえられてたとしたら、はたして性格は変わるだろうか?という話になった(でも話の軸がどんどんズレていく)。

わたし「クローゼットの中が全部『エリザベート』の衣装になってたらやだな。モノトーンだから」
友人K「あれは喪服だからね」
わたし「そういう意味では、ギャル服だったらいけるかも。サイズさえ合えば。カラフルだから」
友人K「うーん…でも、ミニはまずいんじゃないか?」
わたし「ああ…、ミニはまずいね」
友人K「じゃあ、服が全部プリーツプリーズになってたらどうする?…わたしだったら翌日朝イチで美容院に行って前髪パッツリのアバンギャルドな髪型にするよ」(なんだか友人Kはこんな不条理な状況に順応する気満々である)
わたし「寝る時もプリーツプリーズなのか?ムレそうだなあ」
友人K「シルク(注1)なんじゃないの?それか全裸で寝るかだよね」
わたし「おなかが冷えそうだ。わたしだったら朝イチでユニクロに駆け込むよ!」
友人K「プリーツプリーズ着てユニクロに行くのか?」
わたし「ユニクロ行くのにドレスコードはないもん。それにここは日本だもん。東急文化村だろうが東急本店(注2)だろうがわたしはユニクロで行けるもん」

注1:後で調べたらプリーツプリーズはポリエステル100%らしい
注2:なんとなく、プリーツプリーズを着た人がたくさんいそうな気がする。ちなみにわたしが何のために東急本店に行くかというと、観賞魚ショップがあるから

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友人Kはふだんはヒステリックグラマーとかの服を着ているが、けっこうプリーツプリーズも着こなせるんじゃないかと思う。
わたしはすんごいおばちゃんっぽい似合い方をしそうなので絶対着たくない。
服が変わると気分転換にはなるけど本質的な性格は変わんないと思う。

6月だ

あじさいが咲いている。6月だ。
4月に蒔いたレタス、面倒くさくて放置していたら、モリモリ茂って、ベランダの通行が困難になってきたので、ちぎって豚の生姜焼きを巻いてバリバリ食べた。

鳥居清長

きょうは母とデートで、千葉市美術館「鳥居清長 江戸のヴィーナス誕生」に行った。
わたしは元・千葉県民だし、千葉市美術館はお気に入りなので、ちょくちょく行く。
いつも思うけど千葉市美術館はほんとに美術好きな人がていねいに企画してる感じがする。
それにわたしは清長が大好き。ものすごいたくさん展示されていて幸せだ。

あれだけいっぱい描いてたら、そりゃあ画風もどんどん変わっていくだろう。
清長は、やっぱり冬の絵より、夏の絵がいい。黄色とか黄緑色の印象が強いせいだろうか。
夏が好きだったんだろうなあと思う。
なんだろうな、ああいう明るさって、たしかに存在していて、ああわかるって思うんだけど、ちゃんと表現されたものは、なかなかほかでは見かけないような気がする。

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千葉市美術館、来年の1月から待望の「日本の版画」展をやるそうな!
こんどは1941-1950年。いやー楽しみだ!!
しかも同時に展示するのが「芳年・芳幾の錦絵新聞」。ひゃああ…なにがなんでも行かねば!

なにやってんだ

ノドが痛い…。
こないだのカラオケでシャウトしすぎたせいだろうか。
歌い過ぎでノドにポリープこさえた前科があるので自重しなければならない。

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きょうはラッキョウの甘酢漬けを作ってみた。
わたしはカレーには福神漬けよりラッキョウ派なのだ。
下ごしらえのとき、たまねぎを切るときみたいに目が痛くなって、慣れるまで大変だった。
ネットや本で見たいろんなレシピを参考にして適当に作った。こんなにいろんなレシピがあるってことはどうやっても出来るんだろうけど、おいしく漬かるといいな。
それにしても、手がラッキョウ臭くてたまらん。

しかし、いまラッキョウなんか漬けてる場合じゃないんだけどなあ!なにやってんだわたし…。

超えられない壁

大学時代の友人たちが泊まりにきたので焼肉&カラオケ。
四人の間のヒエラルキーと、唄う曲のスケール感が重なるのが興味深い。

友人O
東大マスター卒、一流メーカー技術屋→専業主婦。この四人の中では、ダントツの勝ち組。
唄った曲:I believe、ハナミズキなど。(なんだか背景に宇宙が見える。)

友人I
一流メーカー技術屋。三高。美脚。しっかり者。
唄った曲:空も飛べるはず、Tomorrow never knows、中島みゆきなど。(まわりに草原が広がっている。)

友人K
ショウビズ関係。でも月給取り。ほら吹き。ただし悪気はない。
唄った曲:オペラ座の怪人、黒の舟歌、タイガー&ドラゴンなど。(オペラ座。もちろん地下は湖。)

わたし
唄った曲:ワールドアパート、ここでキスして。など。(半径5m。)

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せっかく泊まりなのに、ふだんから規則正しい生活の友人Oと友人Iはさっさと寝てしまった。
日本をしょって立つ「地上の星」二人との、超えられない壁がそこにあった。
友人Kとわたしはいつものように、朝までえんえんと寝不足テンションでバカ話をしていたのであった。

ラクーア

きょうはラクーアに行った。 東京ドームの横っちょにある温泉。
温泉地までの移動がおっくうなわたしには最適だ。
ふらりとひとりで行って、誰に気をつかうこともなくひたすらダラダラするのが良い。
低温サウナでボケボケしすぎて、帰るころには疲れきっていた。
今度都心で飲んでて終電のがしたらラクーアに行こう、と思った。

照れるぜ

妹が、「お姉ちゃんのイラストの紙袋をふだん使いにしてる人を見た!」とメールで報告してくれた。
ケーキ屋さんの紙袋。その人は、気に入ってくれたのかなあ。
まあ、なんとなく使ってみたってだけかもしれないけど…。
でももし遭遇したらけっこうドギマギしちゃうだろうな。

展示ということ

二日続けてお出かけだ。しかも青梅まで。遠かったー。

『アレぢごく』~青いオープンカーに壷がはねられればいいんじゃない?~ というのを見る。(青梅織物工業共同組合敷地内 BOX KI-O-KU、SAKURA FACTORY/ART SPACE petal fugal)
現代アートの作家さん10名による展示。
タイトルのセンスとかから「美大っぽいノリだったら嫌かも」と懸念していたが、楽しめた。わたしは、他人の作品はわからないものだと思うので作品についてあれこれ言うつもりはないが、今日はたまたま「面白い展覧会とはどんなものか?」という内容のシンポジウムもやっていた。
こういう催しはアートの方ではよくあるらしいんだけど、わたしにはもの珍しく、興味深かった。イラストとアートとは地続きだし、やっぱり、同年代の作家さんとは、置かれた状況も抱えてる問題も似たようなところがあるようなのだ。

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シンポジウムのパネリストは展覧会を企画したり評論したりする側の人が多く、既成概念を打ち破ることが出来ていれば、作品そのものはいらないという発言もあった。
知的刺激を追求していけばそうなるだろう。結局は言葉の世界だということだろうか。

でも、その考え方には、作品の持つ雰囲気なり情感なり「よくわからないもの」が抜け落ちている。解説文を一所懸命に書こうとしても、絶対に書きあらわせないもの。そういうものを表現しようとしているのは、ちゃんと伝わってたと思うんだけどなあ。

そんなこむずかしいことを考えずストレートに情感とかを追求できるのがイラストレーションの良い点だ。イラストレーションとは、作品の「華」とか「魅力」に特化したものと言えるかも知れない。そうやって出てきたイメージが一気に理屈をとび越えることだってある。

現代アートだって、人の心を動かす何かがなければならないと思うのだけど違うのかな?
作家は、作ることによって考えることができる。でも、考えるためだけに作っているのだろうか?アートであれイラストであれ作品を作ることに理由などなく、そうとしかできないから作るのだ。
ようするに自然物と同じなので、作品はいらないと言われても、できてしまったものは仕方がない。できの悪いものは淘汰されていくだけだ。

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作家さんの口からエンターテイメントって言葉が出たのにはちょっと驚いた。まあ気になるよね…。

でも、近所のおばあちゃんが現代アートを見て理解できないのは当然で、たいていの人は、知的刺激を受けたいのではなく、感情を揺さぶられたいのだ。
しかし、大きいとか寒いとか眩しいとか、ほんのささいなことでも、動く時には心は動くものだし、美術の教育を受けてないから現代アートを見ても心が動かないなんてはずはない。
つまり現代アートはわからないものだという思い込み(=既成概念)が厄介なんだろう。

でも、知識を持たない人の勘は意外に鋭かったりして、けっして侮れないものだ。
自己アピールの得手不得手や、メディアの情報による偏りはどうしようもなくあるが、大勢の人が支持するものには、やはりそれなりに良い部分があるのではないか。

感情ってそれくらい重要なものなんだと思う。感情を揺さぶられる気持ちよさってある。

そもそも、教育なんか受けなくたって、必要だったら人は自分で学習できるものだ。
読み書きができれば、ある考え方に巡り会うことも、必要かどうかを判断することもできる。

既成概念から解放される自由は素晴らしいけど、不自由なままでいたい人もたくさんいる。
アートが必要な人と必要でない人がいること自体はどうすることもできない。
その人にとってその時に必要でなければ、面白いことに出会っても気がつかない。理解する人は理解するし、理解しない人は理解しないというだけのことだ。
それに、理解できたと思っていても、本当に理解してるかなんて誰にもわからない。だから作る者は歩み寄らなくていいし、見る者は卑屈にならなくていい。

エンターテイメントってその人の資質の問題なのではないかと思う。
無理なものは無理。エンターテイメントのために努力できるならそれもまた資質だし。
(それにしても、理解するってどういうことだろう。理解したいという気持ちはなんだろう。世界中のものを見尽くし、理解し尽くそうとしても不可能なのに。)

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アートはある場所に展示することが前提だし、展示することが作品そのものになっていることもある。(今回の会場は古い織物工場を利用していて、空間自体が面白かった。)
アート(=試みること)において、展示法または企画は命のようなものだろうし、アートの作家さんの関心はそこに向かいやすいようだ。

イラストレーターが売り込みに知恵をしぼるように、アーティストは企画に頭を悩ませるわけだ。(はっきり言って、イラストレーターにとっては、展示も売り込みの一環のようなものだし、イラストレーター同士で集まって話をすると、作品がどうこうというより、どうしたら売れるかとか、ギャラがどうとか、ケチくさい話になりがちで、役にはたつけど正直つまらなかったりする。)

実際に、展覧会などに行って良かったと思えるのは企画が面白いときだったりする。
企画がつまらないと、いくら質の良い作品が飾られていてもすべて台なしになってしまう。
そういう意味でも、作品と企画とは完全に分離はできないけれど本来は別のものだと思う。

じつは、作品そのものには社会性も(あってもいいけど)必要ではないんじゃないかと思う。
プレゼンによってようやく現実的な社会やお金とからむのだと思う。

作品自体にも展示にもそれぞれ意味があると考えなければグループ展って難しくないかな。
これはイラスト描きにとっては明白なことのように思うが、アートは複雑だな。

今日のシンポジウムではそこらへんがとっちらかってる感じがした。ここをあいまいにしているとせっかく人数があつまってもゆるいくくりしかできない。
グループ展と個展だったら個展の方が面白いという話も出ていたが、そりゃあそうなるだろう。
でも現代アートのグループ展って、企画いかんによってはものすごい可能性がありそうな感じはする。

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イラストレーションは、はじめから社会的なもので、発注を受けて描くという制約、印刷等で頒布されるという制約があるが、展示したくなかったらしなくても良いという点では、非常に自由でもある。(そのかわり、量や質感や大きさやなにかで圧倒することは難しい。)
アート系の学校を出ている人は、慣れてるのか、さも当然のように作品を展示するけれど、作品を作ることと展示することは、わたしにとっては全然別のことだ。
展示するために作品をつくるのってしんどい…。

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で、なにが言いたかったかというと、グループ展の準備が進まないよー、ということと、わたしはイラストレーターでいいや、ということ。
とはいえ、わたしもここのところ企画力の必要性はちょっと感じているのだ。
展示うんぬんとは別の次元で、今までちょっと受け身すぎたかなあと。
あー理屈こねすぎたかな。頭でっかちかな。どうも失礼しました。

失神

新宿二丁目・タイニイアリスで、げんこつ団公演「失神」を観た。
げんこつ団は学生のころから好きな劇団で、久々にタイニイアリスでやるというので観に行った。
面白かったー。なんかパワーアップしたような。
かなりヤバいネタもあったけど(まあ、ヤバいといえば全部ヤバい)。
ハゲヅラおやじ軍団の映像が少なめでちょっと残念(笑)。

世間との接点

いま住んでるお部屋はアパートみたいな造りだけど、じつは下宿なのだ。
今週は大家さんが家族旅行に出かけていたので、お留守番をしていた。
と言ってもついでにゴミ出ししたくらいなのだが。
何事もおこらなくて良かった。

暮らしの哲学

池田晶子さんが亡くなられて、そろそろ3ヶ月がたつけれども、6月に毎日新聞社から出る「暮らしの哲学」の単行本に、連載時の挿絵を1点だけ載せていただけることになった。
雑誌の挿絵は、たいてい、一度使われたらそれきりになってしまうものなので、書籍の形で残していただけるのはとてもありがたいことだ。
あの絵は、絵としてはそんなにうまくないのだけど、自分でも気に入っていて、描きながらなぜか「考える時間」の最初の回に戻るような感じがしていた。

眠り日

やらきゃいけないことはあるんだけど〆切りまでちょっと余裕があったりするとき、どうにもこうにも気力が湧かなくて、ひたすら眠くて眠くてしかたない日がある。
そういう日のことを、わたしは「眠り日」と呼んでいる。
こうなると何をやっても無駄なので逆らわずに眠る。

今日がまさにその眠り日で、24時間ウトウトしていた。
不思議なことに、眠っても眠ってもまだ眠れるのだ。それでいろんな夢をみた。
寝だめは健康に良くないそうだけど、そんな問題ではないのだ。

わたしは誰?

幼い頃から、たとえばひとりでお風呂に入ってるときなんかに、ときどき、自分が誰で、どうしてここにいるのかわからなくなる瞬間があった。
友人Kもそういうことがあると言ってたし、誰でもあることなのだと思っていた。
でも、どうもそうではないらしい。

昔は、とつぜんそんな感覚に「襲われる」感じだったけれど、今では、いつでもその感覚をよびおこすことができる、というか、常に自分が誰なのかよくわからないようなところがある。

なるべく自分をお部屋に入れておかないと、拡散して無くなってしまいそうだ。