照れ屋さん?

自分ではブログで思ったことをさんざん書き散らしてるくせに、他の人の日記を読むのは(とくに知り合いのは)、照れるというかこっぱずかしいというか、どうにもこうにも、なんとなくイケナイことをしてるような気がして、なかなか見に行けない…。
(はてなアンテナやらミクシィやらで更新チェックはしてるんだけど)
で、ときどきエイッと気合いをいれてまとめ読みすることになるのだった。
パソコンの前で照れてもまったく意味がないのになー。

長い一日

今日はまず「ザ・チョイス大賞展」(伊東屋ギャラリー)を見に行った。
すでに活躍されてる方も多かった。みなさんとてもすばらしく、ちょっと動揺。
銀座まで行ったので、STAGE 1ギャラリーに寄りたいところだったけど、どうしても、今日は千葉市美術館に行きたかったので、そのまま千葉へ。

千葉市美術館でいまやってる展示は、「日本の版画 1941-1950「日本の版画」とは何か」と、「芳年・芳幾の錦絵新聞 東京日々新聞・郵便報知新聞全作品」
ふるえが来るような絶妙な組み合わせ。見る前からワクワク。
日本の版画展は約10年前から1~2年おきにやっていた展示で、今回が最終回。
わたしは1回目は見てないんだけど(すっっっごく残念)、ほんとにいい展示だった。

今回は戦時中の版画が中心で、ちょっと地味だった。戦争中の作品は、極論すればすべて戦争をテーマにしている、というようなことが説明文に書いてあった。
そうだよなあ、目の前にあるわけのわからないものを描かずにいられるわけがない。
花一つ描くにしたって、戦争の影響はあっただろう。戦争に協力するとかなんとかいう次元ではなく。

1944年、45年の作品はほんとに少なくて(展示されたものは、その時期のものを多くあつめていたが)、でもそれでも必死に制作を続けた人もいて、たとえば川上澄生は、1943年に中学校の先生をやめて、戦争が一番大変だった時期に、絵本を作っていたという、なんだかほんとに鬼気迫るものがある。
あとやっぱり、わたしはそんなに好きではないんだけど、棟方志功の作品はすごかった。迫力が違う。リズム感も強烈。ああいう版画、ありそうでほかには全然ない。

錦絵新聞は、明治時代初期、浮世絵(木版の錦絵)から印刷への移行期に、その名のとおり、錦絵で新聞を作ってしまったという、へんてこなもの。
大衆向けに、内容はほとんどがゴシップ(女房が浮気して夫に刺されたとか)だけど、現代の挿絵のルーツとも言えると思うので、とても興味があった。
印刷もまた、版画といえば版画だし…。
落合芳幾の作品の多さと、月岡芳年の作品の人物の描き方、臨場感に圧倒された。

美術館の中に4時間半くらいいた(ほんとはもっといたかった!)。

それから、千葉から引き返してきて、ギャラリーDAZZLEさんの「THE MOVIES 21」展のオープニングに顔を出した。「ようこそ先輩」展でご一緒した、西山亜紀さんが出展されてたので。
人がたくさんでゆっくり見られなかったけど、おしゃれな展示。
そのあと二次会にもお邪魔した。いろいろおしゃべりして、とても楽しかった。

デコデン

携帯を、念願のデコデンにした。
といっても、めんどうくさいし、けっこう不器用なので、市販のキラキラシールを貼っただけなのだが。
…微妙なものになってしまった。センスないわ、わたし。

考え中…

このごろなんだかわたし展示やりすぎなんじゃなかろうか。
毎回おいでくださる方にはほんとにかたじけない気持ちでいっぱいです。

展示のたびに、自分なりに課題を持って制作しているが、このままのペースで行くと、慣れてしまって、自分の中で新鮮な気持ちがうすれてしまうのが怖い。
ただ発表する場を作ればいいというふうにはわたしは思えないし、失敗するリスクもあるけど、やっぱりその時の一番新鮮なものを出したい。
せっかくいろんな人の意見を聞ける機会だし、絵ってどんどん変化してくものだから。

展示を多くやれば充実感はある。
でも、ただ忙しくしてればいいってもんじゃない。
いまも、いくつか展示のお誘いをいただいている。そういう流れみたいなんで、乗ってたほうがいいかなとも思うけど…。
どの展示も、参加すれば楽しいし、世界がほとんどイモヅル式に広がるのは確実だし、できればぜんぶ出展したいのはやまやまなのだが、わたしは何がやりたいのかという意志を持って選択しなければならない。展示に軸足を置くならまた話は別だけど。

チョコレート

包装紙や紙袋にイラストを使っていただいているケーキ屋さん、コンディトライシュピーレンの岡田さんがチョコを送ってくださった。
わーチョコレートもやってたんだ!(バレンタインは終わっちゃったけど)。

写真を撮ったあと、さっそくいただく。さすがに美味しい~。(じつは写真撮る前に食べちゃったぶんも…笑)
一緒に写っているビニール袋は新作。こちらもなかなかいい感じ。(半透明なので、袋の中に白い紙を入れて写してます)

ギャラリーめぐり

今日は在廊日だったので、STAGE 1ギャラリーに行った。
おいでくださったみなさま、ありがとうございます。

途中、今回一緒に出展されてる方が、別のとこでも展示してるというので、そっちを見に行き、ついでにお知り合いのギャラリーに連れてってもらった。ニューヨークのチェルシーみたいなビルに入ったところだった。
知らないと入って行きづらいけど、いろいろあるんだなあ…。
で、さらにいくつかギャラリーめぐり。(自転車を借りて、銀座の街を疾走。これは気持ちよかった。)銀座ってほんとにたくさんギャラリーがあって、そこで毎週どれだけたくさんの人が展示してるかと思うと、あたまがクラクラする。

夜は、オーパギャラリーの「イラストレーターズ通信原画展」のオープニングに顔出し。
今回もレベルが高かった。やっぱりみんな一番自信のある作品を出してるから。
でも、なんだか全体に不思議とまとまりがあって、おだやかな雰囲気だった。
わたしは、冊子に載せた絵の原画サイズが大きすぎて出展できず、すごく残念…。
イラ通展はどんどん発展していて、今日のオープニングも大盛況、マッチ展のオープニング並みに混雑していた。

オルゴォル

来月から、新聞小説の挿絵をやることになった。
朱川湊人さんの小説で、題名は「オルゴォル」。連載は180回の予定で、土日もお休みなし。うはは。
小説の進行と同時に、少しずつ世界を発見しながら描いていくということで、旅のような、ライブみたいな感覚を生かせたらいいなあと思う。

わたしは大学の卒論で、主に戦前の新聞小説の挿絵をテーマにとりあげたので、国立国会図書館にせっせと通って、古い新聞の資料をあさったり、マイクロフィルムを凝視したりしては、ため息をついてたものだった。
そのころはまさか自分が挿絵をやることになるとは思ってなかったが、イラストレーターになってからはずっと目標にしてたので、非常にうれしい。

本編がはじまる前に、予告でわたしの顔写真も掲載されるそうで、フォトグラファーのあきさんに撮っていただいたものを使うことにした。
新聞だから背景を切り抜いたうえに丸くトリミングされてしまうのだけど。
しかし、わたしの顔などに情報としての価値があるのだろうか。
それも国立国会図書館に収蔵されるのか…。

2008.2.LOVE展、在廊予定

2008.2.LOVE展の在廊予定ですが、いまのところ、15日(金)の午後1時くらい~夕方くらいまで在廊する予定です。ほかの日にもできれば顔を出したいのですが、未定です。

ギャラリーは、昭和4年建造の、レトロで素敵なビルの1階に入ってます。
展示もいいんですけど、建物見るだけでもおもしろいです。むかしは劇場として使われてたらしく、なんとなくその名残があります。
東京メトロ有楽町線・新富町駅から、首都高を渡ってすぐのところです。
ではではどうぞよろしくお願いします。

やっぱりマイペースはよくない

今日はグループ展「2008.2.LOVE」の初日。
またしても直前にバタバタ搬入。
わたしのマイペースは人に迷惑かけるからだめなんだった。ということを思い出した。
しょっちゅう指摘されるのにすぐ忘れる。もう自己弁護のしようがない。

出品した絵は1枚だけで、画材は紙+アクリルガッシュです。
今回のお題は「愛」ということですが、タイトルはなぜか「鍾乳洞」。
鍾乳洞、行ったことないんだけど。
上下を逆さにしてもかまわない絵というつもりで描きました。

今回の出展者10人の中でわたしが最年少だそうで、ものすごく気がラクだ。わたしが一番ものごとを知らなくて当たり前なんだもん。今日もいろんなことを教えてもらった。
お客様で御年92歳の現代美術家の方がいらしていた。超お達者。
この世界には引退も定年もないからなあ。先はまだまだ長い。

記憶のはざま

このごろ小学校を舞台にした絵を描くことが多くて、気になったんだけど、といってもたいしたことではないんだけど、小学生のころって、冬場は教室でコート着っぱなしだったんだっけ?
たしか廊下にフックがあったけど、コート脱いで掛けてた記憶がない。かといって、ずっと着っぱなしだったという記憶もない。

でも給食のときにはコート着てたらおかしいしなあ…。
それに習字の時間とかコート着てやってたとは思えないし。
いすにかけてたのかな。ロッカーはランドセル入れたらいっぱいだったはずだし。それとも、最初からコート着てなかったのかな。

わたしの育った千葉県外房地方は海洋性の温暖な気候で、12月には菜の花が咲く。
自宅と小学校の距離はかなり近かったし、休み時間には(授業中もだけど)教室でずっとお絵描きしてたから、あまりコートは着る必要がなかったかもしれない。
でもわたしもコートは持っていたし、教室の中はけっこう寒かったし、遠くから通ってきてた子はたぶん着てたんじゃないかなあ。

田舎だったし、当時はまわりの子も洋服には無頓着で、毎日ジャージ着てたりしてたけど、上着はどうだったんだっけなあ。
上着を着てるイメージがないってことは着てなかったってことだと思うんだけど。
他の子たちがどんな服装をしてたかというイメージが、あまり思いうかばない。
ビジュアルがうかばないというのは、わたし的にはちょっとショックだ。
うーん、わたしほんとに洋服に興味がなかったんだろうなあ…。
最近の子どもはおしゃれだし、いま描いてるのは現代の子どもだから、思い出す必要もないんだけど、記憶がスッポリ抜けてると、なんだか気になる。

やさしさと気づかいについて

「空気が読めないことについて」の日記を読んだ友人に謝られてしまって、何を謝られたのかわからず、困ってしまった(←すでに空気読めてない)。

あの日記は、わたしの個人的な感想のようなもので、「ああ、わたしは、なんと空気が読めないのであろうか!」という驚きと違和感について考察してみただけで、特定の誰かを非難しようとかそういう意図で書いたわけではない。(言いたいことがあったら直接本人に言うなりメールするなりすればいいんだし、そもそも、わたしに他人を非難する資格なんて始めからないと思ってるので。)なんだかときどき気が合わない人がいるけど、それは仕方がないことだから、次善の策を考えよう、という方向性で書いたつもりだった。
気が合う人とでさえ、いつでもわかりあえるってわけではないんだし。

しかし、直接話すより文章にしたほうが伝えやすいような気がしてたんだけど、うーん、文章ってのも難しいもんだなあ。。。

わたしは、わたしの言葉の行間から気持ちを汲み取って欲しいんじゃなくて、書いた言葉はできるだけ文字通りに受け取ってもらいたいと思う。共感したり疑問を持ったりするのは、その上でしていただきたい。(でも読み方は強制できないんだよなあ!)

わたしにとって、言葉になってないこと(つまり空気)は、意識化されてないことなので、存在しないのと同じことなのだ。(そういう無意識的なことでも、絵になら描けるという言い方も一応できるんだけど、絵描きは、絵に描くことを通して無意識を意識化しているというだけのことだと思う。)

自分で意識化出来なかったことを、誰かに指摘されて自覚することは、とても面白い。
絵を描いたり文を書いたりして誰かに見てもらいたいと思うのは、このためだと思う。
でも、もともと意識化出来てなかったことについて、気づかいされても意味がない。

わたしにとってやさしさとは、ただ、相手を無視しないというだけのことで、それは気づかい(つまり推量にもとづいて考えを進めること)とは全く違う。

わたしはときどき他人の存在をド忘れすることがあって、やさしいとは言えないので、こういうと傲慢かもしれないけど、わたしは誰かに気づかいして欲しいんじゃない。
理解しあうために言う必要のあることははっきり言ってくれなきゃわからないし、言う必要がないなら何も言わなくていい。

すでに意識化されているのに、言わないと決めて飲み込んだ言葉については、飲み込んだ本人が責任をとればそれでいいんだと思うし、そのことで他の人間があれこれ推量をして悩んでも仕方がない。

冷たい考え方かなあ。まあ、わたしはそう思うというだけのことです。
とくに女子の世界ではまず通用しない考えなので、気をつけないと…。
でも気づかいって、ピッタリはまるとすごく気持ちいいものだし、わたし自身はもっと気づかいを心がけなきゃいけないなあとは思っております。

マイウェイ

マイウェイといえば小学校の卒業式だかなんだかで、全員で合唱させられた。いま思うとちょっとうす気味悪い。今だったら世界に一つだけの花とか合唱するんだろうなあ。

わたしは、マイウェイにしても、世界に一つだけの花にしても、歌そのものはきらいじゃない。合唱もきらいじゃない。
でも歌ってのは歌わされて歌うもんじゃないし、ただこういう曲をみんなで合唱するのは歌の意味的にスジが違うと思う。

合唱するのをやめろとは言うつもりはないけど。
こういう矛盾を乗り越えて、子どもは大人になっていくんだ。。。
って大人になれてないわたしが言っても説得力ないか。
(そういえば小学校の卒業アルバムだか文集だかに、将来の夢を書かなきゃいけなくて、「まともな大人になりたい」って書いた。今思うといやみな子どもだが、けっこう切実な願いだった気もする。もしも逆タイムカプセルがあるならば「ごめんね」と手紙を書いて埋めたい。)

マイペース

わたしは会社員時代に先輩に言われてはじめて自分がマイペースだと知った。
同時に、マイペースという言葉が、どっちかというと否定的なニュアンスで使われているのだということをやっと理解した。26歳くらいのころだった。
あまりにマイペースすぎて、それまでマイペースであることに気づかなかったわけだ。

それまでわたしは、マイペースな人というのは、カラオケで「マイウェイ」を歌う人だ、という漠然としたイメージをもっていた。

よく「マイペースで生きたい」とかいう人もいるし、したがって、マイペースというのは、好ましいこと、さらにいえば、すべての人間が目指すべき到達点ぐらいに考えていたのだった。
だから、自分はまだまだ未熟だし、(マイウェイも歌わないし、)マイペースの境地にはほど遠いと思ってた。

だけど…、マイペースじゃない人なんているんだろうか?
マイペースじゃないペースってありうるのか?
いくら人のペースに合わせたって、合わせた瞬間、それは自分のペースになるのでは?
なんて思ってしまうのは、わたしがマイペースだからなんだろうか?

とりあえずマイペースな人とはわたしのことだと仮定すると、いろんなことがクリアになる。
マイペースという言葉のもともとの意味はけっこう広いし、わたしの昔の解釈もけっしてまちがってはいないと思うけど、実際には、他人のペースに合わせない人、または合わない人、という意味に限定されて使われていることが多い。

ようするに、空気読めないのソフトな言い方だ。そしてそれはたしかにわたしのことだ(泣)。

他人から見て、まわりと比較したときに、「あの人はマイペースである」と、評価を下すために使われる言葉なんだと思う。
まわりと自分との比較という意識が薄いのがマイペースの本質である以上、自力で気がつくことができなかったわけだよなあ…。

春だ

さっき窓を開けたら、春が来ていた。
きのうの雪がまだ道ばたに残っているけど、今日から春だ。

空気が読めないことについて、補足

わたしのまわりでは、空気読めない人のほうが多数派だと思われる。
空気が読めない人同士が出会った場合、読めてなさのベクトルが近いと気が合うんだけど、でも反対向きだと、なに考えてるんだかまっっっったくわからないこともある。そういう人とは、なにをやってもことごとくズレが生じる。
あと、一方通行の場合もある。こっちはわかんないのにむこうはわかってるとき。

相性ってあるんだなーと思う。
今まで、異様に相性が合わない人に何人か会った。
相手も空気を読めてないということはなんとなくわかるから、けっして嫌いにはならないんだけど、いちいち気に障ってしょうがない。
笑えるうちはまだいいけど、揉めたらほんとにやっかいだ。

また、どういうんだか、ときどきばったり出会っちゃうんだな、そういう人に。
で、これはマズイと離れようとしても、なぜだかうまく離れられなかったりする。
空気読める人にとって、空気読めない人というのはこういう感じなのかな。

そう、相性の悪い相手に考えを伝えるのって、すごく大変なことなんだよね。べつにすべての人と仲良くする必要はないとは思うんだけど…、難しいなあ。
ただ、こういう日常的な困難にこそ、ロジカルな思考が必要なんだと思う。