暑さ対策

あんまり暑いので、この太陽エネルギーを有効活用すべく、サン・ティー(日光を利用した水出し紅茶)を作ったりしている。
おしゃれと貧乏のせめぎあいのような飲みものだけど、お日さまのおかげさまで(へんないいかた)、苦みがなくて飲みやすい。

***

で、夕方を待って、冷房は苦手なので厚着して、東京オペラシティアートギャラリー「メルティング・ポイント展」に出かけた。
ジム・ランビー、渋谷清道、エルネスト・ネトの3人の作家のインスタレーション。
ああ面白かった。すいててのんびりできたし。でももっとたくさん見たかったな。
エルネスト・ネトは今、香川県で個展をしているそうだ。見に行きたいなあ~。

手作りなめたけ

えのきだけが安かったので、なめたけを手作りした。
なめたけは瓶詰めで買うものだとばかり思っていたけど、ネットで検索すればいろんなレシピがでてくる。拍子抜けするくらい簡単だし、添加物なしで、安くたくさんできる。
パスタにかけたり、炊き込みご飯に入れたりするときに惜しみなくたっぷり使えて良い。
市販品の味に慣れているので、なにかひと味足りない気もするが、それについては今後研究していきたい。

真夏のご近所探検

ネットで、自宅から歩いてすぐのところにギャラリーがあるのをみつけた。
このあたりは、ごくふつうの、庶民的な住宅地である。
どっちかといえばあんまりアートな雰囲気の場所ではない。

半信半疑だったが、夕方、少し涼しさがついてから、とことこ出かけてみた。家からほんの数分なのに、なかなか見つけられず、いったりきたりした。
夕日のオレンジ色が、高圧線の鉄柱や家々の壁やうっそうとした雑草に強く反射して、妙に静かで、なんだか狐につままれたみたいなへんな気分になった。

どうやらその住所にあった建物は現在工事中のようだった。
シートの下から、いかにもアートっぽくペイントされた壁が見えていた。
工事が終わったらまたオープンするんだろうか。

帰省子

実家にいるとほんとうにすることがない。
一日中、だらだら眠ったり、父が庭で育てたキュウリをかじってみたり。

ちょこっと帰省

今日は実家に帰った。お正月以来だ…。
実家は千葉県だからほんとは日帰りでも行けるんだけど。
この時期、外房線の窓からは、ライトグリーンの田んぼが目に鮮やかで、稲穂のこんがりとしたいい匂いがする。
8月の終わりには、稲刈りがはじまる。

性格診断

面白いサイトをみつけた。

「タイプ別性格診断」

ちなみにわたしは「INTP型」…考えにふけってうわの空の大学教授を絵に描いたようなタイプだそうな。2回やっても同じ結果だったんだけど、そうなのかなあ~?
まあ、たしかにわたしは鈍感ですとも、ええ。

夏が来た

暑いときにはヴィヴァルディとか聴いてると気持ちよい。
小学校1年生のとき、はじめて母にねだって買ってもらったレコードは、ヴィヴァルディの「四季」だった(イ・ムジチ合奏団の)。
たしか、小学校のお掃除の時間によくかかっていて、おぼえたんだった。
「四季」の「夏」が夏らしいかというとそうでもない気がするんだけど、イタリアの夏はあんな感じなのかなあ。

また雨

はやく梅雨明けしてくれないと、暑中見舞いが出せないよ。(年賀状はさんざん遅れたくせにね。)見切り発車でいいかなあ。

今日はうなぎを食べそこねた。

アサーティブ

22日の日記に関連して。

さっきある本を読んでいて「アサーティブネス・トレーニング」というのをはじめて知った。
アサーティブネスというのは自己主張のことで、もともとはアメリカで、黒人の公民権運動やら女性解放運動から出てきたものだそうな。
というと、けっこう古くから(’60年代くらいから)あるってことじゃないか。
なんだかおおごとだ。個人的なことみたいなのに、世界中で困っている人がいるのだ。
アメリカ人というといかにも自己主張がはっきりしてそうなイメージだけど、いろいろあるんだな。

日本でもいろんなところで講座が開かれて、けっこう高い受講料だけど、人気があるようだ。
自己責任を取ることを避けたり、自己受容ができないタイプ、自分の意見を言えなかったりするタイプばかりでなく、一見正反対にみえるような、攻撃的なタイプもトレーニングの対象になるらしい。
ただこういう名前がつくと、まるで悪い病気のような感じがしてしまったりするけど、だれにでもありうることだし、大げさに考えずに、ダメもとで気軽に参加してみてもいいのかも。
いったいどんなトレーニングなのか、興味しんしんだ。

インストール

やっとフォトショップCS2をインストールした。
ついでにイラストレーターやらドリームウィーバーやらもアップグレード。
とくに問題はなさそう。それにたぶんすぐに慣れそう。

ダメ人間党

こないだ友人Kと、日本の政党の名前は似たり寄ったりで、あえてまぎらわしい名前をつけてるみたいで、違いがわからないという話をしていた。
ここはわかりやすく、イギリスの労働党と保守党みたいに、二大政党制で、「勝ち組党」と「負け組党」というのはどうだろう?
しかし、自分で勝ち組と名乗るのは、よっぽどイヤな奴か、あたまの悪い奴だ。
自分で負け組と名乗るのも、それはそれで、イヤなメンタリティだ。
そんなに世の中イヤな奴ばっかりだろうか。
そう考えると、勝ち組とか負け組とか、実在しないんじゃないかなあと思う。

わたしは自分はすごくダメ人間だと思うんだけど、やっぱりどっちにも投票したくない。
でも、ダメ人間はダメ人間であるがゆえに、ダメ人間党というのはありえないのだ。

ムーン・パレス

わたしは、小説の挿絵描きなどしてるくせに、そんなに小説は読まない。
というか読めない。なにしろ読むのがめちゃくちゃ遅い。
ちょこっと読むたびにあちこち思考が飛んで行ったり、何度も同じところをくり返し読んだり、気になることがあると何ページも戻ったりする読み方なので、速読には向かない。
でも読書は映画や音楽鑑賞と違って自分のペースでできるのがいいところなのだ。
で、あまりよく小説のことは知らないのだが、ポール・オースターの『ムーン・パレス』はとても好きだ。好きな本は何度も読む。
こないだ舞台のニューヨークに行って、だいたいの地理関係がつかめたので、また読み返した。
孤独感については、わたしはちょっとわからない。
でも、お部屋にこもって、蓄えを食いつぶしていくところとか、なにかこう、わたしもそれくらいの覚悟はしていたいと思うわけだ。

ムーン・パレス (新潮文庫)

ムーン・パレス (新潮文庫)

    • 作者: ポール・オースター,柴田元幸
    • 出版社/メーカー: 新潮社
    • 発売日: 1997/09/30
  • メディア: 文庫

ゴドー待ち

エリザベートの新人公演を観て来た。
お芝居作るのってほんっとに大変なんだなあ。

***

それから友人Kと飲みに行った。
友人Kは『ゴドーを待ちながら』はいかに希望に満ちた話であるかと力説してくれた。
なるほど。確かに、希望を否定されさえしななければ、あとは自分しだいで、芝居の時間が終わったあとも、いつまでもいつまでも希望を持ち続けることはできる。
友人Kの今までの作品は、途中で待つことができなくなってしまっても、ずっと思いを持ち続ける人の話ばかりだったけど、次はどうなるだろう?
自分しだいってことは、自由ってことだよね。大きな希望を持ったっていいじゃないか。

伝えるということ

友人Kは秋に芝居を打つことになり、今は脚本を書いている。
話し相手がいると考えがまとまりやすいらしく、昨晩からうちに来て、お菓子など食べながら、ああでもないこうでもないとやっていて、よくわからないけれど、なにかタタキ台的なものがまとまったようだ。
友人Kは頭が良いので、話を複雑にしすぎたり、逆に説明を省略しすぎたりする傾向があるのだが、わたしはものわかりが良くないので、わたしに理解できるように書くとちょうど良くなる。

***

わたしにとって自己主張なり表現をするのはごくあたりまえのことで、そのことで他人を傷つけてはいけないとかクヨクヨ考えることは少ないし、我慢なんかしない。
自己主張が強いと、この国では悪いことのように言われるが、気がついたらこの性格だったんだもの。まあ、自分が良い性格だなんて思っていないけどさ。鈍感だし。でもわかりやすいでしょ。

それでも、発信するのはけっこう恐ろしいことで、恥ずかしいとか、どうせ言っても無駄だとか、わたしには才能がないからとか、認められなかったら嫌だとか、そりゃあいろいろあるけれど、そんなに自意識過剰に身構えるほど、世間はわたしのことを気にかけてはいないものなのだ。
うまくコミュニケーションできるかはともかく、結局黙っていられないのだからしかたない。

自己主張することは、コミュニケーションを放棄することではない。伝えたいことを作品という形にまとめて世に問うこともコミュニケーションの一形態だと思っている。
わたしの場合は絵だから、言葉に変換できるようなメッセージがあるわけではないんだけど、主張するにもコツがあって、まず自分が何を言いたいか自分なりに整理しなければならないし、効果的に伝えるにはいろいろテクニックを洗練していく必要があって、それで日々試行錯誤しているのだ。

最近思うのだけど、主張できるということもひとつの才能で、この才能がない人もたくさんいるのだ。
主張しなければまわりと対立する危険もないが、それはコミュニケーションが取れているのとは違う。傷つけることを怖がる時は、自分が傷つくのを怖がってるので、主張もしないが人の意見も上手に聞けない。そんなふうにして表面だけ仲良くしても得るものもないし無意味なんじゃないかと思うし、たまに何か言いたいことができても、ふだんそれを伝える訓練をしてない人には、相当難しいだろう。仕事の伝達事項はテキパキこなせたとしても、心の中心に近ければ近いものほど、伝えるのも難しくなる。

(心の壁の開け閉めをするのは難しくて、時には閉める必要もあるのに、わたしなどは案外あけっぱなしなので、会社勤めのころなどは、つねに周りに人がいるのが辛くて心が休まらず、以後しばらくひきこもりになった。今お部屋にこもっているのは、単に出歩くのがめんどうだからだけど、部屋の壁があると気分がラクだ。)

わたしは主張するタイプなので、今まで、主張しないタイプの人のことはほぼ眼中に入らないというか、なかなか興味が持てなかったのだけど、そういう人が自分の考えを持っていないかというとそうでもなく、ただ、伝えようという意思を持っていないだけだったりするので、根気よく話を聞くと面白いこともある。立ち位置が違えば考え方も違ってくるし、他人の考えがちょっとでも聞けると面白い。
でもそのお宝にたどり着くためには、こちらが心を開いておくだけではだめで、傷つけないように気遣いながら、こちらから踏み込んで掘り起こしていかないとだめなのだ。
面倒くさいし、拒否されることもあるし、寝た子を起こすような危険もあるけど。

ただ、主張しないタイプの人も、いつか誰かがわかってくれるなんて待っていても、誰もこない可能性もあるよ。自分は自分で思っているほど特別な存在ではないし、もともとお宝を持ってないかもしれないし。愛とか誠意とか以心伝心だけで満足できるならいいけど、それだけでは社会性は持てない。(いや、わたしも社会性はないんだけどさ。)

わたしは他人同士が完全にわかりあえるなんて思わないし、わかってもらうために生きてるわけでもない。
わかってもらうということは相手の考えを変えさせることでもない。
でも、まったくわかりあえないわけでもない。
言っても無駄というのは、自分をおとしめる上に相手をバカにした考え方で、聞くかどうかは相手が決めることなので、とりあえず言ってみればいいし、一度や二度、うまく伝えられなかったからって、伝えることをあきらめるべきではないと思う。

エーヤン!

今日は宝塚雪組『エリザベート~愛と死の輪舞~』を観劇。
開演前、東京宝塚劇場の前に、参院選の、レズビアン代表とかいう候補者の選挙カーがやってきて、「レズビアン!レズビアン!」と連呼していて笑ってしまった。
ふつう選挙カーって候補者名を連呼するけど、連呼すること自体が気持ちいいんだろうなー。

***

わたしは大学に入ってから、通学途中にふらふらと寄り道しては歌舞伎や宝塚を観に行くようになった。

宝塚を最初に観たのが’96年のエリザベートの雪組の初演のときだった。
それから、エリザベートは、ガラコンサート、内野聖陽がトートをやった東宝版、月組の本公演と新人公演と、気がつけばもう6回も観ているが、やっぱり宝塚版が良いと思う。
ストーリーはそんなに好きではないのだけど、作品自体がほんとによく出来てるので、何度観ても面白い。(ちなみに『ベルサイユのばら』は一度も観たことがない。)

今回の水夏希のトートはニタニタしてキモチワルイ…じゃなくてあのそのえーと、キモカッコイイと言っておこう。白羽ゆりのエリザベートは、客観的に見たらわがまま放題なのに本人は心が束縛されてると言い張っていて、ある意味、今まで観た中で一番ロック魂を感じた(笑)。尾崎豊っぽい「この支配からの卒業~」。「愛と死の輪舞」っていうより「愛と死のガチンコ対決!」みたいなヤンキーテイストで、面白かったっス。