スター

「もう、美空ひばりみたいな国民的スターはあらわれない」というようなことが、さも残念そうに語られることが多い気がするが、それは、はたして憂うべきことなんだろうか。

わたしは、美空ひばりの時代は知らない。
でも、今でも、一過性であったり、局地的な人気だったりしても、たくさんの人がガッと群がるスターはいる。みんな群がること自体が好きなのかもなー、なんて思ったりする。
大勢が支持するものには、それなりにいいところがあると思うし、そういうものをあえて避けるみたいな、スノッブ的な考え方は嫌いだ。

でも、わたしも美空ひばりはいいなあと思うんだけど、群がることにはどうしても気持ち悪さを感じてしまう。みんなが同じ方向を向いている気持ちよさはあるのだろうけど、同時に考えることを放棄しないようにするのは大変なことだろうと思う。

日常の雑事あれこれ

先日実家から送ってもらった、絵本の入ってた古い段ボール箱。
「透明なペットボトル」と大きく印刷されている。それがセールスポイントだったのかと思うと、なんかキュンとしちゃった。昭和63年2月の日付が入っている。20年前というとわたしはまだ小学生だ。

たしかに、昔のサラダ油は、四角い缶に入ってた覚えがある。
でもソースとかお醤油とかシャンプーとかは、それ以前から透明の容器に入ってた。あれはペットボトルとは違ったのかなあと思ってウィキペディアで調べたら、お醤油は昭和52年からペットボトルが使われてたって書いてあった。(いまはシャンプーの容器ってたいてい不透明だけど、残量がわからなくて困る。)

ゴーヤの種をふたたび蒔いた。苗を植えれば確実なのだけど、確実である必要もない。
それと、ほうせんかの種も蒔いた。
園芸に凝るつもりはないので、なるべく簡単そうな品種を選ぶ。簡単だから美しくないってことでもないし。

週末に友人たちが遊びにくるので、部屋の片付けをしたり予備のふとんを干したり。

それから、ふきの煮物に挑戦。
昔から母が「手間がかかる」と言いながら皮むきするのを眺めてたものだが、やってみたらべつに難しくはなかった。でもたしかにかなり面倒くさい。
もうちょっとやわらかくなるまで煮ても良かったな。
それにしてもふきの葉っぱの佃煮が大量にできてしまった。どうしよう。
わたしは少々考えすぎの傾向があるけど、料理してるとあたまが空っぽになるのが良い。

熱帯魚を飼い始めてそろそろ丸4年になる。
最初に、いちばん安いブラックネオンテトラを5匹買ってきて、その後2匹死んだけど、追加はしなかった。
生き残りの3匹は、パイロットフィッシュだったにもかかわらず、なかなか長生きだ。(パイロットフィッシュって言葉、墜落するのが前提になってるのが怖い。)
水槽にも凝る気はないので、ほとんどほったらかしにしていて、このごろはエサも4、5日おきにしかやらないし、水換えも1、2ヶ月に一回くらいだけど、過疎状態でストレスがないのか、魚たちは病気もせずにぴちぴちしている。

でもそろそろ新しいお魚を飼いたくなってきた。
グーラミィ(ナンプラーの原料らしい)とか飼ってみたいけど、ケンカするかなあ。ブラックネオンには寿命をまっとうして欲しいので、その後にしたほうがいいかな。
新たに飼い始めると、また4年後か5年後まで面倒をみることになるから、よく考えよう。
お魚たちは、死ぬときはあっさり死ぬし、死んでも過剰に悲しくはならないところがいい。彼らを見てると、生命に対する過剰なこだわりから解放されるような気持ちがする。

硫化水素

薬剤師をしている母から「硫化水素」という件名のメールがきた。
なにごとかと思ったら、○○○と×××を混合しないように、という注意だった。

○○○と×××というところ、いちおう伏せ字にしてみたけど、これを知って混ぜちゃう(自殺する)タイプと、知らなかったせいでうっかり混ぜちゃうタイプとがいる。
わたしはうっかり混ぜるタイプだと、母は考えたのだろう。
はい、気をつけます。。。

ミッフィーの前にひざまずくわたし

先日、実家の押し入れから発見した、ミッフィーの絵入りのマグカップを、絵本やお絵描き帳と一緒に送ってもらった。これでマグカップ問題は解決。

ただ、気になるのは、ミッフィーの下に、今はなき「あさひ銀行」のロゴが入ってることだけど(笑)

ニューヨーク、ロンドン、東京

先週、今週とちょこちょこギャラリーめぐりをしている。
今日は、去年NYでお世話になった、渡辺啓子さんの個展に行った。(六本木、ギャラリー金輪)
さすが、あちらでご活躍されてるだけあって、エネルギーがすごかった。

それから、galleryROCKETの、せきなつこさんの個展に行った。
先週、大学のサークルの同期のRyu Itadani君の展示を見に行って知ったのだけど、せきさんも、やはり同じサークルの同期で、いまはロンドンを中心に活動されているそうだ。絵もとってもカッコ良かった。
正直言って、名前はなんとなく覚えてるけど‥? という感じだったのだが、
ぐうぜん、ご本人にお会いできて、顔をみたら思い出せた。
外国で描いてる人の絵は、日本で描いてる人とくらべると、なんかちょっと空気感がちがう感じがする。

デミオくんとわたし

マツダ・デミオのサイトの、エコドライブ・キャンペーンのイラスト描きました。

わたしはゴールド免許を持ってるんだけど、完全なるペーパードライバーなので、車の分類というと、バス/トラック/タクシー/それ以外、というおおざっぱな認識で、目の前を走る車をみても、車種etc.という情報は全く読み取ってなかった。(そうやって読み取れてない情報というのが世の中にはたくさんあるのだ)
今回デミオをデミオらしく描くためにいろんな車をじろじろ見たりした。
こういうお仕事をすると、今まで興味がなかったことに興味が持てて良い。

広告マンにとって、車をキャラクター化するということはごく当然のことらしい。
見るほうも、車に顔がかいてあるのを自然に受け入れてしまうのだから、すごいなと思った。実際車に乗る人は、マイカーを擬人化していたりするのかもしれないけど。
わたしなどはつい「車に顔なんかないのになあ」と思ってしまう。
だって、ないものを描くのは大変なことなのだ!今回もけっこう試行錯誤した。
それでもやっぱり、キャラクターというものには親しみやすさを感じる。それはなぜだろう。慣れの問題だろうか。愛だろうか。国民性もあるのだろうか。興味深い問題だと思う。
でもたしかに車以外に人間のキャラを出したりすると説明がかえってややこしくなるのだ。

上野ぐるぐる

今日は、あきさんと、国立西洋美術館「ウルビーノのヴィーナス」展を見に行った。
待ち合わせの時間より早く上野についたので、国際子ども図書館をのぞいてみた。
「チェコへの扉 子どもの本の世界」という展示をしていた。
いろいろ素敵なのがあったが、しかけ絵本にとくに興味を持った。でも、どれもガラスケースの中に並べられていたので残念。やっぱり絵本は手に取ってみないとなんだかよくわからない。

ヴィーナス展は、ギリシャ時代からのいろんなヴィーナス像をあつめた展示。
「みんなおしりがキレイだねー」と感心しながらみてまわった。
ヴィーナスはたいてい横たわってるのだけど、その向きによる印象の違いが面白かった。頭が左になってるほうが誘惑してる感じがする。お魚をお皿に並べるのと同じ向きだ。

「ウルビーノのヴィーナス」は、やっぱり魅力的。。。ぴちぴちだ。。。
モデルの人もきれいだったのだろうけど、絵だからこそこんなに印象的なのだ。
新婚さんの寝室にかけた絵らしいけど、これはちょっと魅力的すぎないか???

国立西洋美術館の常設展示は大好きだ。
コルビュジエの建築もすばらしいのだけど、いまは改修中なのか、渡り廊下から先には入れず、わたしがいちばん好きなボナールの絵がなかった。でもいつもと違う階段から降りられて面白かった。

それから、上野公園周辺で、あきさんに写真の取り方をレクチャーしていただいた。あきさんは、ながらくウォール街でバリバリ働いたあと、日本に帰国してからは、金融関係の翻訳業と並行して「オレンジページ」などで写真のお仕事もされている。
なにを選び、どう切り取るかの瞬間的な判断など、わかりやすく説明していただいた。
レンズを通すと、ちがったものの見方があることに気づくことが出来てとても新鮮。

それにしても、わたしが撮った写真は、作品というより資料という感じになる。同じカメラで同じものをあきさんが撮った写真とくらべると、なんか、平面的なのだ。
写真の善し悪しはわからないが、自分でも撮ってみると、鑑賞するところがかわるなあ。

すぐにそれをなにかに取り入れようとかいうことではないけど、とても面白かった。

押し入れ発掘

土曜日は、大鹿さんのお絵描き教室に参加。
大鹿さんは何冊も絵本も書かれているし、絵のタイトルも詩的でとても素敵だ。
今日は、身のまわりから感じたことを言葉にする練習をした。
考えてみれば、わたしは、自分の思ったことを言葉にするのはまあまあできるけど、まわりの状況を言葉にすることはほんとに不得意なのだなあ。

それから、そのまま実家に帰った。タケノコの美味しい季節なので…。

実家の押し入れには、わたしが子どものころ描いた絵や工作がみんな取ってある。
それで日曜日は、押し入れの中を発掘していた。(ほんとは、タケノコより、こっちがメインの目的なのだった。)

幼稚園のころ、お絵描き帳をすごいはやさで消費していたおぼえがある。
でも、幼稚園児なりに、描き方を工夫していた記憶もあって、いまでも、絵を描きながら、この描き方は幼稚園のときと同じだなー、なんて思うことが時々あって、その確認をしたかった。
30年近く前のノートだけど、ペンのインクの色もまだあざやかで、なかなかかわいらしい絵がならんでいた。
もっと小器用な子どもらしくない絵を描いていたような気がしていたが、意外に素直というか、やっぱり幼稚園児は幼稚園児なのだなと思った。

絵本もたくさん出てきたので、宅急便で東京に送ってもらうことにした。
チャイクロとか、すごく良く読んでたなあ。でも、12冊くらいのセットだったなかで、「かたちといろ I、II」「つくってあそぼう」の3冊だけは絵まではっきり覚えてたのに、それ以外の「のりもの」「どうぶつ」などの本の記憶はまったくなく、あきれてしまった。
ほんとに、絵を描いたり工作したりするのが大好きで、そこに興味が集中していたのだ。三つ子の魂百までというけれど、ほんとにこわいくらい、そのとおりのようだ。

小学生のときのノートには、いろいろお話を作ろうと試みた形跡もあり、そんなことは完全にわすれていたので驚いた。
あまりに支離滅裂すぎて、解読するのが困難なわりにあまり面白くなかったけど。
書いたころは自分なりに筋が通っているつもりでいたはずだったのになあ。

「タタリの学校」の見本を両親に渡したら、うれしそうで、良かった。
こんな稼業をしていると、両親には心配かけっぱなしなので。
「タタリの学校」と同時に出た、シリーズ第2巻「ノロイの怪魔」も読みおえた。
このシリーズは一冊ごとにイラストレーターが違うので、それも面白いところ。
「タタリの学校」は、学校という、閉じた空間のなかの恐怖だけど、「ノロイの怪魔」はちょっと視界が広がって、中学生や大人が出てきて、それはそれで怖い。化け物とかよりも、となりにいる人間が怖い、っていう感じは共通していて、登場人物が1巻と2巻で微妙に重なってるのも面白いので、ご興味のある方はこちらもぜひ。

怪異伝説ダレカラキイタ?〈1〉タタリの学校 (怪異伝説ダレカラキイタ? 1)

  • 作者: 加藤一,岩清水さやか
  • 出版社/メーカー: あかね書房
  • 発売日: 2008/04
  • メディア: 単行本

怪異伝説ダレカラキイタ?〈2〉ノロイの怪魔 (怪異伝説ダレカラキイタ? 2)

怪異伝説ダレカラキイタ?〈2〉ノロイの怪魔 (怪異伝説ダレカラキイタ? 2)

  • 作者: 加藤一,こさささこ
  • 出版社/メーカー: あかね書房
  • 発売日: 2008/04
  • メディア: 単行本

で、今日、おみやげにゆでタケノコを山ほどもらって東京に帰ってきた。
JR京葉線の特急は、すいてるときに乗ると、東京湾や、工場、倉庫の屋根を見下ろしながら、なめらかに空を飛んでるような気分になれる。

タタリの学校

先月、意識もうろうとなりながら作業してた児童書『タタリの学校』の見本ができてきた。
なかなかいい感じじゃないか~。でもほんと大変だったな…。

描いてるときはそんなにこわいとは思ってなかったのだが、こうしてできあがってみると、けっこうヤバい。表紙とか、なにがこわいんだかわからないけど、顔の色が半分ちがってるし。
わたしが小学生なら、ぜったい読めなかったと思う。
というか、この本が置いてある部屋に入れなくなってたと思う。
なんかとんでもない妖怪変化が出てくるわけではないし、血みどろスプラッタみたいな残酷なこわさでもないんだけど、そこはかとなくブキミだったりシュールだったりで、大人が読んでも面白いです。
…そう、学校ってさ、こわいとこだったよね…、って気分にひたれます。

さしえたくさん入ってますが、わたしとしては、見返しの絵が気に入ってます。
編集Eさん(すごい凝りようでした!)にはほんとにお世話になりました。
というわけで、怪異伝説ダレカラキイタ? 1『タタリの学校』(加藤一さん/あかね書房)、来週21日に発売だそうですので、どうぞよろしくお願いいたします。

『dreaming』展

つぎの展示は6月末とお知らせしましたが、その前にもうひとつ、グループ展、やることになりました。

『dreaming』~夢みるとき~ 表参道、オーパ・ギャラリー
6月6日(金)~11日(水)午前11時~午後7時(最終日午後5時まで)
安藤忠/岩清水さやか/eto/おうみかずひろ/佐々木一澄

5人展ということで、ひとりあたり5点ほど作品を制作します。
このところ1点だけの展示が多かったので、わざわざ来ていただくのが申し訳ないような気がしてたのですが、こんどは、すこしまとめてお見せできます。
いま考えてるのは、夢は夢でも「少女の夢」ということで描いてみよう、と。
先日、K先生に「少女の夢」を忘れないように、というお言葉をいただいたので。
少女というのがなんなのか、わたしの中ではややあいまいなのだけど。

ちなみに、個展はまだ先、来年か再来年くらいにやりたいと思っています。
それまでは、あせらずに、グループ展をたくさんやって仲間を増やしたいです。
個展やるならコンセプトを練りに練って、立体とかガツンと作り込んで、イラストレーションということにとらわれずにやりたいです。額に入れて展示するのは一度やったからもういいかなと。

それとはべつに、ギャラリーカフェとかでリラックスした展示もやってみたいけど、わたしの絵は、おしゃれカフェのゆるーい雰囲気にはあんまり合わないだろうなあ…。
去年のニューヨーク展の絵も、日本ではまだ展示してないし、作品のストックがもう少しできたら考えようと思います。

勝手な解釈

セツモードに行ってたころ、わたしは絵描きになりたいとは思っていなくて、真面目に通ってなかったし、意識が低すぎてろくな絵が描けなかったのだけど、いまにして思えば、学んだこともあった。

デッサンの授業のモデルも学生だったから、いろんな変わったポーズをしてくれた。それをいろんな角度から見て、紙にうつすと、ほんとにとんでもない形になる。
セツ先生は、いつも学生たちよりもずっと楽しそうにデッサンしていて、頭で考えたものには限界があり、実際に目で見たものから発見することは、無限で、ほんとうに面白いというようなことを言っていた。
よく理解できないまま、なるほどそういうものかもなあ…と思って心に刻みこんだが、わたしは、まったく逆に、実際に見たものでなくても、多少デッサンが狂っていても、人間というのは、手足と頭がついていれば、人間に見えるものなのだなあとも思った。

デッサンが狂うのが怖くて絵が描けなくなっていたので、ちょっと勇気が出た。怖がっているとつい頭で考えてしまうし、自分で限界をつくってしまうことになる。

そんな勝手な解釈が、じつはいまのわたしの絵の描き方の基本にもなっている。
わたしはスケッチもめったにしないし、目で見たものをそのまま描くことは少ない。
ジャングルにも鍾乳洞にも江戸時代にも行ったことがないし、実際に見たことがなくても描けなければ、小説の挿絵なんかできない。

かえって、実際に見たものは、その印象が強すぎて引きずられてしまうので、しばらく頭のどこかに眠らせておいて、絵が浮かんでくるまで気長に待つ。
感動したものであればあるほど、いったん冷静にならなければ描けなかったりする。
それで実際見たものと違ってしまったとしても、絵なんだから、まあいいかと思う。

もちろん、自分の目で見ることをおろそかにしているわけではなくて、ほんとうに印象が強かったものは、しばらく忘れてしまっていても、いつかなにかの拍子にふっと思い浮かんで、その世界に包まれるような感覚になる。
その感覚さえつかめたら、細かいところは資料やなにかを見て描いてしまう。

たとえばジャングルの絵も、ジャングルの絵であることにはさほど意味がなく、どこか別のところで感じた感覚を描いているのだろう。
少なくとも、わたしは絵を描くのにとくに想像力は使ってないつもり。
だからふだんからなるべくいろんなものを見ておきたい。特別なものじゃなくても、身のまわりのものでも、よく観察しておきたい。

セツ先生の言ってたのってこういうことかなあ…、なんて思ったりするけど、やっぱりちょっと違うかな。

前世

このごろは友人Kと長電話してはこそこそ悪だくみしているのだ。
それで、子どものころ読んだ本や、描いた絵や、好きなもの嫌いなもの、その他ひっかかる点についてあれこれ検証している。

友人Kは、以前に、前世がみえる力をもった人に会ったことがあって、「あなたの前世は、17世紀のインドの僧侶で、手先が器用だったので、カトマンズの王宮に招かれて、宝石職人をしていた」と言われたそうだ。ちなみに友人Kの師匠K先生は「ムガール帝国の兵隊」だったそうな。

もちろん確かめることは不可能だけど、やけに具体的な霊視である。
前世がビジュアルで見えたとしても、その兵隊がどこの国の兵隊なのか、言葉に変換するのは難しいと思われるので、たぶん言葉が浮かぶのだろう。
でも、脈絡もなく、ふとなにかが思い浮かんでしまうのは、絵描きも芝居屋もおなじだ。
友人Kは、たぶんあれは霊視というより「配役」に近いんじゃないかという。で、配役だったら自分にも出来るという。そりゃそうだ。

そこで、じゃあわたしの前世はなんだったのかと聞いてみたら、「タヒチで、くだものを運んだり、ゴーギャンのモデルになって絵にヒントを与えた人」だそうな。
…それってさー、めちゃくちゃいい役じゃん。ほんとに合ってんの~???
わたしは絵的にはどっちかというとゴーギャンよりゴッホのほうが好きなのだが。

ゴッホの「ゴッホの椅子」「ゴーギャンの椅子」は、とても好きというか、気になる絵だ。
でも、ゴッホはあきらかに変だけど、ゴーギャンも同じくらい変な人だったんじゃないかな。一人が耳を切って、もう一人が何ともないわけはないので、ゴーギャンもさぞかし傷ついたろう。
ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という絵は、いちどこの目で見てみたいなと思う。

ま、よくわかんないけど、「くだものを運ぶ人」ってのは、そうかもな、って気がした。

ハチ公から太郎へ

わたしは、岡本太郎の彫刻は好きだけど、絵はあんまり好きじゃない。だってなんだかおそろしいんだもの。個人的にあの筆づかいが好きになれないのもある。

「明日の神話」みたいな絵が、あんな渋谷の駅のどまんなかに飾られるってどうなのかなあ。
あのエネルギーが、日常のなかで薄められて、空気のように扱われるのだ。でも毎日通る人々の心のどこかに怖さは沈殿していくだろう。絵を甘く見てはいけない。

それにしても、渋谷駅に貼ってあった、「ハチ公から太郎へ」ってコピーはどうかと思う。
ハチ公は、そりゃあ忠犬だろうけどさ、ちょっと、太郎も犬扱い、みたいな感じしない?
いまは、犬に太郎って名前つけるのは珍しいかも知れないけど、むかし飼ってた犬の名前が「タロ」だったから(南極物語の影響)そう思っちゃうのかなー。

ゴーヤの芽が出てこない

ゴーヤの芽が出てこない。水菜は順調なのに。
ちょうど出張で東京に来た父に会ったので、相談してみたら、蒔くのが早すぎるとあっさり言われた。種の入ってた袋に、「桜が咲くころに蒔く」って書いてあったのに…。
このごろずっと寒かったもんなー。

やべーよ

どっ、どうしよう、すごい絵思いついちゃった。
やっぱ描かなきゃダメかなあ。描くのすんごくたいへんそうなんだけど。
でも思いついちゃったしなあ。描かなきゃダメだよなあ。。。